許されるなら、このまま、世界の中心まで堕ちていきたかった。 ::: Night Flight :::最後に一緒に星を観ようよ。 アカリの言葉を、懇願に近いそれを、拒む勇気も意気地も生憎と俺は持ちあわせていない。今まで何度も二人で空を見上げていたのだから尚更だ。 俺にとって、アカリと星を観ることは既に生活の一部になっていると言っても過言ではなかった。 だから深夜の教会の前で、紺碧の空に散らばった星を二人で眺めながらも、これが最後になるなんて感覚が少しも出てこなかった。明日には、明後日には、一月後だって、アカリは笑顔で俺に同じ事を言ってくるのではないかと、そう思ってしまっているくらい。 けれど、紛れもなく、今日が最後となるのだろう。 無言で食い入るように星を見つめるアカリを、ちらりと横目で見やった。 塗り潰された闇夜に似つかわしくない、真っ白なドレスが、星の落とす弱々しい光にもチラチラと反応して淡く輝く。むき出しの細い肩としゃんと伸びた背中。この季節は、人間にはまだ寒いはずだ。 それなのにアカリは、彼女の格好を見た瞬間言葉を失った俺に、はにかみながら言った。 「魔法使いさんにも、見て欲しかったから」 「…明日、か…」 アカリという名の少女の、結婚式が行われる日。 「だって、昼間、魔法使いさんは寝てるでしょ?」 拗ねたように呟き、少しだけスカートをたくし上げたアカリはその場でくるりと一回転した。彼女の動きに従って、レースのあしらわれた裾が、ゆったりと弾んで揺れた。 垣間見えた足首と白い花をあしらったハイヒール。 目の前の少女が、天性のように、人の視線と関心を集めることなどとうに知っていた。得体の知れない俺のような存在が傍をうろつくことを、快く思っていない男が多いことも。 「馬子にも衣装、でしょ」 囁いたアカリは紛れもなく、成熟した一人の女性だった。 魔に属する俺は人間よりずっと五感が鋭い。故に夜目も利く。 俺に見せたかった、そう吐き出したアカリの唇が小さく震えていたことも、俺ではない誰かへの罪悪感が瞳に過ぎったことも、全て気付いていた。けれど口にはしなかった。 互いの気持ちに蓋をすること。見ないでいること。 それが、俺とアカリが、俺とアカリでい続けるための無言の約束だから。 「―――初めて一緒に星を観た夜のこと、覚えてる?」 空を見上げたまま、小さく訊ねてきた。俺は小さく頷く。 忘れるわけがない。 うわあ、と一度感嘆符を漏らしたアカリは、以降長い間言葉を発しなかった。 最初こそ、退屈ではないかと心配して何度か彼女を窺ったけれど、いつ見ても彼女の視線は星に真っ直ぐに注がれていて、密かに嬉しくなったから。 「わたしも覚えてるよ。空はすごく澄み切ってて…、闇なのに、明るかった」 「…あの夜は、月が、特に輝く日だったから…」 「うん…綺麗だった。……見とれすぎて、思わず身を乗り出しちゃったくらい」 塀に座っていたアカリは前のめり過ぎて落下した。 隣から突然存在が消えたことに驚いて、何かを考える余裕もないまま、俺も宙に身を投げた。風圧を感じながら一つの魔法を心中で詠唱して、段々と小さくなっていくアカリに向けて放つ。ふわ、と掬い上げられるように降下する速度が鈍化したことを確認して、高度をあわせれば、アカリはぎゅっと目を瞑っていた。 空中でその手を取る。恐る恐る姿を現した彼女の瞳が、大きく瞠られたのは直後のことだ。 あれが、今までで唯一の、アカリとの接触。 その時を思い出したのだろう、彼女が苦笑したのが判った。 「あれね、すっごく驚いた。ああ、本当にこの人は魔法使いなんだ…って」 「…最初から、そう言ってる…」 「魔女さまを元の姿に戻した時に、魔法使いだって判ってたはずなのにね。なんでかな。やっぱり、自分の身に起きたからかな。魔法使いさんが助けてくれたあの時、一番、強く実感したんだ…」 淡々と、一度も俺に視線を寄越さないで、アカリは言った。ともすれば素っ気のない仕草だけれど、彼女が俺を見ない理由を―――見られない理由を、恐らく俺は知っていた。 暫く、俺もアカリも、ただ静かに星を観ていた。 それから、何かを振り切るように軽く首を振ったアカリが、静かな足取りで塀に近付いた。 大人の腰の高さ程しかない塀に、そっと腰掛けた彼女を目にしながら、既に頭の中では一つの詠唱が始まっている。さして長くない、空中遊泳の魔法詠唱。 終えたと同時、アカリの上体が塀の向こう側に倒れ、ドレスの裾を翻しながら消えた。 瞼の裏に、厭味な程白いドレスの残像がちらつく。 すぐさま後追いで落下したため、その速度のまま、細い腕を掴むことが出来た。手繰った先の表情は、あの時とは違う。強風に煽られた髪に頬を打たせながら、彼女はどこまでも信頼しきった顔で見つめてくる。 身の内に留めている魔法を、もし発動しなければ、少女の命はないだろう。 それは、俺がアカリを永遠に手に入れる、唯一にして絶対の方法だった。 身をもたげた昏くも甘い誘惑に、発動を促していた意識が少しだけ淀む。けれど欲に走るには、全てを悟ったように俺を射抜く、アカリの瞳が清廉すぎた。どちらでもいいと、その瞳は語っていた。 ―――俺は、意気地のない生き物だ。 結局あの時のように、華奢な身体を掬って、小さな命を救ってしまった。 「……っ」 急激に減少した落下速度に、アカリの身体ががくんと揺れた。咄嗟に抱き寄せたら、ドレスが足元に纏わりついた。風を受けてはためくそれは驚く程柔らかくて軽い。 緩く下降しながら見つめあう。 きっと今互いの頭に過ぎる思考は、端から端まで全て同じなのだろう。 そう、言い切ってしまえるだけの確信も、想いもここにあるのに、それでも俺と彼女はどこまでも遠い存在だった。俺にとって些細でしかない僅かな時を、アカリは人生と呼び、心血を注ぐ。 柔らかな頬にそっと手を寄せた。 親指で目元をなぞれば、導かれるように潤む大きな瞳。 はらはらと。 澄んだ瞳から零れ出た幾つもの水滴が、俺の頬をぱたりと叩き、転がって宙に踊る。 涙は、悲しい時に出るはずだ。けれど間近にあるアカリの顔はどこか幸福そうだった。その瞳に映る俺も全く同じ表情をしていた。鼻先を近付けて俺とアカリは微笑みあう。 言葉なんていらなかった。 どんな代償だって構わない。今だけでいい。 これから俺が行うことを、この瞬間だけ見逃して欲しい。 ―――たった一人、人間の少女の唇が、ひどく柔らかいと知ることを。 NOVEL 20100425:アップ
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