掴まれた腕が痛む。口に出して訴えたのに、拘束する力は緩まなかった。
恐らく、いや間違いなく、目の前の青年は立腹している。

ギルを、怖いと感じたのは初めてだった。

とても怖い。ギルにまとわりつく怒気が怖い。
何故ならそれに、現状を決して曖昧なままにさせないという、確固たる意志が滲んでいたから。私の気持ちを洗いざらいぶちまけさせるまで、この完璧主義の青年が追及を緩めることはないだろう。

自業自得と言えばそれまでだ。
一方的に付き合いを絶った私に、ギルが怒るのも無理のないことだから。


::: 刹那的ブックマーク :::


「とりあえず、座れ」

通されたのは、ハーバル邸の書斎だった。
部屋の奥にあつらえられたソファの前まで来て、ようやくギルは私の手を離す。
遮られていた血液が再び流れ出したため、離されてから数秒遅れて指先がじんじんと痺れ始めた。それほど強く握られていたのだから、いくら抗っても振りほどけないはずだ。

ギルは相変わらず間近に佇む。
私が座るまで傍を離れるつもりがないのだろう。

「…」
「…」

彼の全身から放たれる無言の圧力を受け止められず、私は立ち尽くしたまま俯いていた。



役場に通うことをやめてから、世界は急速に色を失っていった。
厳しい牧場生活の中で私を癒す大部分になっていた作業は、人と触れ合うこと、そして本を読むこと、この二つで。
けどそのどちらもが、あの日、ギルの手を撥ね退けた時から疎遠となってしまった。

人に向かい合えば、今まで着目すらしなかった視点からその人を探るようになっていて。この人はギルをどう思っているのだろう。私をどう思っているのだろう。私たちの関係を、どう見るのだろう。これまで気にもしていなかったそんなことばかり考えてしまい、うまく会話が出来なかった。

読書にいたってはさらに酷く、殆ど文字を追うことが出来なくなっていた。

誰か人の気配さえあれば本が読めた、ギルと知り合う前の状態より、今の私は悪化していた。
通りがかったルークに、少しだけ読書に付き合ってくれないかと頼み込んで、傍に居てもらった。けど何度本と向き合っても駄目で、目に映す文章は全て脳に入りもしなくて、砂粒みたいにさらさらと意識の間を通り抜けていく。
唇を噛み締めて顔を上げたら、ルークの労わるような問いが鼓膜を打った。

『アカリは、誰の姿を捜してんの?』

そんなの。
そんなの、本当は分かっている。


もう誰かじゃ駄目になってしまったなんてことくらい。


私はギルが好きだ。傍に居たい。あの不器用な、気付くか気付かれないか程度の優しさをそっと差し出すギルの傍に、ずっと居たい。
けどそう強く願えば願う程、必ず脳裏を一人の人物がちらついた。
思い込みでさえ涙を流してしまうくらいギルを想う少女の顔が、涙が、微笑みが私を足止めした。

「…っ」

そこまで考えて、一人、ぶるぶると頭を振る。 

―――それも、嘘だ。

本当は怖いだけ。
心地よい関係のままでいれば、私はずっとギルの傍に居られたのに。あえて自分でそれを壊したのは、いずれこの気持ちにブレーキが利かなくなることが見えきっていたからだ。
彼を見つめ続けていれば、必ずや想いは募る。きっと、私はそれを隠せなくなるだろう。やがてギルに露見する。そうしたら、終わってしまう。

そうなる前に、自ら終わらせたかっただけだ。
あの少女の気持ちを汲んでいるなんて真っ赤な嘘で。

何て利己的な感情。


「…おい…」

目を瞑り、無言で首を振る私を、こんな時でもギルは気遣う。
あれ程怒気の含まれていた声音に、気遣うような音が混じっている。ぶっきら棒な単語一つだから、きっと他の人には汲み取れはしない些細な変化。けど私は敏感にそれを察知して、そしてまた勝手な“好き”を積もらせてしまった。

「…めん。だい、じょぶ」
「信憑性がないな」
「ほんと、に、平気」
「だったら顔を上げろ」
「……無理」

頭上から降り注ぐギルの溜息はとても呆れていて、頑なな私は俯く姿勢を崩せないまま。
けど今彼の顔を見れば私は泣くだろう。現に今だって、不規則に胸からこみ上げてくる空気の塊を堪えるのに必死になっているのだから。

「無理じゃない」
「無理ったら無理」
「…この、頑固者め」

俯いた視界に映る、ギルの真っ直ぐな両脚が膝から折れ、綺麗につけられた折り目が動作に従って皺になった。それさえもどこか規則的な、きっちりと計算されたような美しい皺で。
そんなわけはないのに、ギルなら計算していそうだと想像したら、少しだけ笑みが零れた。
噛み締めていた唇が解けたことで、涙腺まで緩んでしまったらしい。何の前触れもなく涙が一滴絨毯に落ちた。ぽたりと小さく音を立てたそれを誤魔化すように、一度瞬く。

瞼を持ち上げた時、傾いだギルの顔が、目の前にあった。


「―――どこが大丈夫なんだ、どこが」


毒づく科白とは相反した優しい目が見上げてくる。
しばし停止した思考回路では、顔を上げないことに痺れを切らしたギルが両膝を折り曲げて私を覗き込んでいるのだ、という、至極ありふれた解を導き出すのにかなりの時間を要した。

「…なんで、見るの?」

涙だけは見られたくないという、最後の砦を壊される。
いともあっさりと。

心の海の中央部から、一際大きな感情の波が押し寄せてくる。
駄目だ、このままでは零れてしまう。
それは涙じゃない。

涙なんかよりもっとずっと決定的で、二人の関係を滅茶苦茶にしてしまう何かが。

身体を反転させようと片足を引く。
けど、それ以上の動きは叶わなかった。
一瞬早く私を抱き寄せたギルの腕が、この場から逃げ出すことを許さない。

「…逃げるのはよせ、結構、堪えるんだ」

滑り込んだ科白に、抗おうと込めた全身の力が抜ける。
こんなことを言われてまで、どうやったらこの腕を振り解くことが出来るだろう。

「お前は元々口数が少ないが、それでも以前は分かってやれた。…だが今は分からなくなっている。何故役場に来なくなったんだ?何故本を読みに来ない?―――何故、僕を避ける?」

溜めに溜めた疑問を、ギルは矢継ぎ早にぶつけてくる。
それらは全て、私の身勝手で理不尽な振る舞いに対する不満。

「今だって、何故アカリが泣くのか、僕は分かってやれない」

更に強く抱きしめられた。少し痛みを感じる程だ。
押し付けられた胸板から聞こえる鼓動は早くて、私は余計に泣きたくなった。

ギルを好きだと気が付いた日。ギルのことを―――拒絶してしまったあの瞬間。

ドアにもたれた彼を見上げた時の、違和感の正体を知る。
年下だ、弟のようだとばかり思っていた青年の背丈は、手足は、私のことを差し置いていつの間にか伸び、私を包み込める程になっていた。


ずっと変わらないでいたい。
ずっと変わらないでほしい。
そう願ってきたのに、届かないんだ。私達は否応なしに成長していく。


「……って、無理なん、だよ」

高く盛り上がった波は遂に、大きな水音を立てて岸に打ち付けられてしまった。

「このまま、ずっと一緒になんて、叶わない…!」

堰を切ったようにぼろぼろと涙が出てきた。
何て情けない姿を晒しているんだろうと思っても、散々無理をさせた涙腺はもう私の言うことなど聞くつもりはないようだった。みっともなく零れる涙が、どんどんギルのシャツに吸い込まれていく。

「二人とも、どんどん変わってくよね。特にギルは、背だって伸びて、…男の人になってきて、きっとこの先……色んな人が、ギルを見る」

シャツを汚すのが申し訳なくて彼を押し返した。
しかしそれを上回る力で抱き寄せられて、私の抵抗は一瞬で無いものにされてしまう。

「…そ、そうしたら、いつか道が…分かれちゃうでしょ?その時、多分、私は耐えられないよ…」

益々密着した身体にうろたえながらも、感情を吐露することはやめられなかった。

「……だから、少しでも取り返しのつく時に……」
「僕と距離を置くことにしたのか?―――こちらの気も知らないで」

静かに聞いていたギルが、割り込むように呟いた一言は、強かな怒気を孕んでいた。そしてそれは、彼が抱いてしかるべき怒りだった。
身を硬くする私をゆっくりと解放して、繊細ながらも骨ばった指が、そのまま湿った頬を伝ってくる。もう抗わなかった。導かれるまま素直に顔をあげた。

鋭い瞳に射抜かれる。
けどそれはこちらを睨みつけるというよりは、何かを堪えているような、切羽詰った表情で。

見詰め合った瞬間、切れ長の目の端が紅く色づいた。

「お前はもう少し、自惚れることを覚えるべきだ」


どういう意味、と訊ね返したかったのに。


流れるように落とされたキスは、彼が今抱いているであろう怒りの片鱗も含ませないもので。あまりの優しさに、私は暫くの間、ギルとキスしていることにも気が付かなかった。

そっと離れていく端正な顔が、段々と焦点を結び始める。

「…これで、伝わっただろう」
「……え…?」

零れた自分の声は、まるで物事を把握していない呆けた音をしていた。
私の反応に微苦笑を浮かべるギル。それから、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように、一言ずつ区切りながら彼は言う。

「僕は、無闇に、人に優しくしない。大事なものは、切り分けているつもりだ。それに…」

ギルの陶磁器のような頬が赤い。ああ―――何だかとても甘い予感がする。
つい凝視すると、視線に耐え切れなくなったのか、彼はそっぽを向きながらもしっかりと紡いだ。

「…どうとも思っていない者のために、毎週毎週、専属の司書などやったりしない」

それは、私の身体の隅々まで潤してなお余る程、心が込められた科白だった。


「……本当は、とっくに、手遅れだったよ……」


唇がわななく。今度のそれは苦しさではない、別の感情を堪えるために。

「もうとっくに…、ギルが、傍にいないと、本が読めなくなってる」
「そうか」
「…っそうだよ。ギルの所為だよ…責任取って」
「もとよりそのつもりだが」

心外だと言わんばかりに片眉をあげるギル。
笑顔と共に溢れてきた感情の波が、悲しくも無いのに頬に筋を作る。それを唇で優しく吸い取られ、柔らかな感触に目を細めた私とギルは、もう一度静かにキスをした。



そうだ、本を読もうと思い立ったら、私には迷わず向かうところがある。

「こんにちは」
「来たか。この間読んでいたシリーズの続きが、昨日届いたぞ」
「本当?読む読む!」

―――それは刹那の心細さを埋めてくれる、大好きな人の隣。



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20091012:アップ