だからと言ってここまで全力で拒絶しなくてもいいだろう。 ::: metro :::おい。 たった二文字の呼びかけの、まだ一文字目も言い終わらぬうちに、青年の前から少女の姿は消えていた。走り去るツインテールがはるか彼方に見える。脱兎のごとき速さとはまさにこのことだ。 おかげでブルーが吐き出しかけた言葉は行き所をなくし、やがて深い溜息へと変化した。 こちらとて別に来たくて少女の牧場に出向いたわけではない。 初めて家畜を購入した祝いに彼女に渡すようにと、いつも世話になっている伯父に言いつけらたからこそ、気が進まないながらこうして訪れたというのに。 乱暴に帽子のつばを引き下げて。それでもブルーは、手にした手綱を持て余す。 確かに、初対面でのこちらの態度はあまりよろしくはなかった。 もっともそれは今思い返して言えることで、当時のブルーにしてみれば、こちとら三人がかりで何とか切り盛りしている牧場を、見たところヘラヘラなよなよした華奢な女が一人でやっていくつもりだなどとのたもうたのだ。正直、自分たちの仕事を馬鹿にされているような気がして不快だった。 元来無愛想な性格も手伝って、だからブルーは吐き捨てるように言った。 『お前が新しい牧場主とかいう奴か。…一月持てばいいがな』 にこにこと屈託ない笑みを浮かべていたティナの表情が、ぴしりと引きつった。 現場に居合わせたエレンが慌てて『このひとすこし口がきついのよ』などとフォローしたが、彼女の気遣いをもってしても、ティナの脳内人物記録の[ブルー]という項目に 天敵 と大きく殴り書きされることは止められなかった。 それからいわゆる犬と猿の仲となってしまったわけだが、実際のところ異様なまでに意識してくるのは少女だけであった。彼女の牧場主生活が三年目を向かえたという実績もあって、ブルーの中では当初の敵意は消えている。 だがそれは相手に伝えなければ何ら意味を持たない変化だ。 少なくともブルーはティナにそのことを告げるなりしなければならないのだと、あの時より成長した彼も理解している。でなければ、心底嫌な相手ならば、いくら伯父の頼みと言えどわざわざ出向くことなどしない。エレンあたりに頼むだけだ。 「…で、お前はいつまで立ち尽くしてんだ?」 ひょいっと、人懐っこい動作と表情でブルーの顔を覗き込んだのはシンだった。 「別に」 「っかー!相変わらず無愛想なこと!そんなだからティナに逃げられるんだぜー?」 傍目には逃げられたショックで放心していたように見えたのだろうか。そう考えるとばつが悪くてブルーは再度帽子を深く被りなおす。青空牧場方面へ歩き出すと、釣竿を小脇に抱えた陽気な大工見習いも後を追ってきた。 「ついてくるな」 「オレもこっち方面に用事あるの」 シンが川や山で釣りをしている姿は何度も見かけているから嘘ではないのだろう。そう判断して渋々引き下がったブルーだったが、シンは彼の機嫌など構う様子もなく続ける。 「この村ン中でお前だけだぜ?あんな露骨にティナが避けんの」 「…それがどうした」 「いやそれがー、何も事情を知らないこちらとしては色々考えてしまうわけですよ。えっあの人懐っこいティナが!?どうして!?ももっもしや何かオイタでもされた!?…なんて」 「馬鹿言うな!誰がするか!」 「だよなー」 青年と酷く似た性質の弟を持つからだろう、シンはブルーの毒舌を平気であしらってしまう。それがまるで掌の上で転がされているようで彼には悔しかった。 相手にしているとストレスが溜まりそうだ。足早に青空牧場の入り口をくぐろうとしたブルーの背に、慌てたようなシンの声が掛かる。 「っと、待てって!いいこと教えてやるからさ!」 「…何だ」 不機嫌をあらわにブルーは振り返る。シンはニヤリと悪戯っぽく笑った。 「ティナは仕事が終わると、大抵、診療所の前の林とかキャラウェイ辺りにいるぜ」 夕暮れどき。あたりが薄赤く染まるころ。やはりシンに踊らされているようで複雑な心境ながらも、手綱片手に結局診療所へ向かっているブルーがいた。 発端は些細なことだ。しかもこちらは幾度も譲歩の姿勢を見せている。 その表現が至極判りにくいものであることまで彼は自覚していないけれども。 とにかく、どうして己がここまでしなければならないのかと、考えたことがないわけではなかった。同時に、何故そうまでして和解しようとしているのか、とも。 けれどいつも途中で考えることをやめてしまう。理由は簡潔だ。 理論や理屈では紐解けないものが、一定の範囲以上の考えを阻んでしまうから。 そしてそれは、ある決まった何かを目にすると、ブルーの望むと望まざるとに関わらずちりちりと胸を痛めつけるのだ。 何かとは例えば、目の前の光景のような。 「ティナ、こっちだ」 「はーい…あっ、オレンジハーブ!しかもすっごい量だよ!」 「どうやら群生しているらしいな。まだ育ちきっていないものもある」 冷静に検分する寡黙な大工見習いの横で、きゃっきゃとはしゃぐティナ。 通りがかる者が見れば―――否、ブルーでさえ恋仲と見紛うばかりの仲睦まじさだ。 どくりどくりと脈が自己主張する。心臓がうるさい。二人に背を向けてしまいたい。けれどここで引き返したら何のために来たのか判らない。 急激に勢いが衰えた己をブルーが叱咤した、そのときだった。ハヤトの双眸が確かにブルーの姿を捉えた。 そして、その視線を追うように、ティナの瞳もブルーを映し出して。 「―――と、ごめんハヤトくん!じゃっ!!」 「ティナ!」 翻った小さな人影は瞬く間に消えていく。ティナは恐ろしく足が速かった。 必然的に取り残された男二人。面識こそあるものの特に親しい間柄というわけではない。 ハヤトの瞳に微かばかり込められているのは、恐らくブルーにとって愉快ではない感情だ。故に、これから先も良好な関係を築ける可能性はなさそうだった。 心持ち不穏な空気をまといながらハヤトは言う。 「何がどうなっているかは知らないが…、あまりいじめてくれるな」 ならば放っておけ。そう毒づきたい気持ちを辛うじて食い留める。 一睨みし合って踵を返す。そうして歩を進めているうち次第に苛々してきた。 先程、ティナが駆け去って数秒遅れで吹いた突風がその勢いのよさを物語っていた。 あらん限りの疾走。ブルーも初対面の対応の悪さは自覚している。けれど、だからと言ってここまで全力で拒絶しなくてもいいだろう、と考えずにいられない。 むかむか。ちくちく。いらいら。ちくちく。 様々な感情が彼の歩調を速めていく。しかし一番の要因は、華やいだ笑顔が己を目にした瞬間凍りついたことだった。―――他の男には笑いかけるくせに。 その事実に思い至ってブルーは決心した。手綱をしっかりと握りなおす。 いい度胸じゃないか。 俺がいつまでも逃げられてばかりだと思うなよ。 一方のティナは、適度な頃合を見て速度を緩めているところで。 体力と瞬発力には自信があるが長距離走は苦手だった。過去何度も青年から逃げてきて、命拾いしたのは彼が後を追おうとしなかったからだ。一度でもそのような行動に出られれば到底逃げ切れなかったろう。 何せ相手もハードな牧場生活を送っている。いくら自信があると言っても男性であるブルーに勝つ確信を持てるほど体力馬鹿ではない。 だが少女は、あの青年が女の後を追うなど世界がひっくり返ってもしないだろうと高をくくっていた。そしてその推測は誤りではなかったのだ―――今までは。 アスファルトを蹴る音が背後から響いてくる。子供の軽やかなものではない。 その足音の力強さに嫌な予感を覚えながらそうっと振り返る。そして、ティナは叫んだ。 「なぁー!?なな何で追うの何で追うのちょちょちょちょっ!!」 「お前が逃げるからだろうがっ!」 「あっあなたが追いかけるから逃げるんだよっ!!」 伊達に牧場運営を手伝っているわけではない。ブルーは体力には自信があった。 肝心なのはペース配分だ。しかもこちらが追っているぶん精神的余裕もある。 茶髪の少女をしっかりと視界に入れながら、青年の頭の中では村の全体図や少女の推定体力などの情報が交錯していた。完全に本気モードだ。 「シンさん助けてー…!!」 道中釣りをしているシンを発見したティナは助けを乞う。必死な様子が声色だけで判った。 対するシンはにっこりとガッツポーズつきの笑みを返した。 「頑張れティナ!兄さんは応援してる!」 「うわぁん!人でなしぃー!」 この件以来ティナは、バンダナを隠したり釣りをしているところをくすぐったりと、シンに地味な嫌がらせをするようになるのだが、このときの彼がそれを知る由もない。 次いでブルーと視線がかち合ったシンはニヤリと、どこか食えない笑みを寄越してきた。 舌打ちし、苦い思いをかみ潰しながらも脇をすり抜けた。今構っている暇はないのだ。 「やだよー!怖いよー!!」 叫びながら走っているため体力の消耗が速いのだろう。徐々にではあるが、ティナの脚の動きは遅くなっていた。小さな肩が激しく上下しているのが判る。対するブルーはまだ軽く息を乱した程度だった。 ぴょんと跳ねるツインテールがブルーを誘う。 『あまりいじめてくれるな』 今後敵になるだろう青年の言葉が過ったが、知ったことかと今度は声に出して毒づいた。 今日は逃がさないと決めたのだ。 ―――今日からは、逃がしてやらないと。 青年は決意をもって速度をあげる。 少女まで、あと数メートル。 BACK 20071216:加筆・修正 |