辛い片恋。隠された横恋慕。それは傍目には均衡で安定的。
現状がベストなのだと言って少女は笑った。


::: クレイズ :::



ティナはいつだって正面から現実を見据えている。
幼く見える顔の裏側で。柔らかな物腰の陰で。
だから、そんな彼女がカールの密やかな気持ちに気付いたことも、そしてそれを受け入れてなお彼を好きでいると言い切ったことも、ブルーは至極当然のことだと思った。

「応援は出来ないが、な」
「心配してくれるの?ありがとう」

擦り寄ってきた羊の毛を撫でながらティナはにっこりと笑う。対して口から零れかけたものは結局言葉にならなかった。だからブルーは心の中でのみ反芻する。そうじゃない、と。

「でも大丈夫だよ。…エレンさんの気持ちは判らないけど、いつも楽しそうにカールさんとお話しているし。カールさんはわたしの気持ちに全然気が付いていないから、大丈夫」

このまま静かに想っているだけなら、迷惑はかけない。
そう言ってこの会話を締め括り、別れの挨拶のように羊の下あごを軽く擦って、軽々と木の柵を飛び越える少女。

「じゃあね。ブルーさんばいばい。また明日!」

手を振って自宅の方向へと駆け出した彼女の、夕陽に輝くツインテールを、ブルーは眩しそうに見つめる。

「ブルー、夕飯にしましょう」
「…いま行く」

いとこの声を耳に、何かを振り切るように、揺れる二つのしっぽから視線を外した。


「今日のご飯はカールさんに教えてもらった料理なのよ」
「へぇ。あいつの専門は菓子じゃねーのか?」
「それがね、カールさん、料理も得意みたいで……」

楽しく談笑していたはずのハンスとエレンの会話が途切れる。ぼんやりとそれを聞いていたブルーが顔を向けると、エレンが心配そうに彼を見ていた。

「どうしたの。全然食べてないわよ。もしかして、口に合わなかった?」
「いや、…美味いぞ」

嘘ではなかった。エレンの料理はいつも美味だ。ただ今日はやたらカールという単語を耳にするなと、物思いに耽っていたらいつの間にか手の動きがおろそかになっていた。
事実であることを証明するため、ソースの滴る肉を切り分け口に運ぶ。やや首を傾げながらも、ようやく表情を綻ばせたエレンに、ブルーの心境は複雑だった。

『―――エレンさんの』

夕方のティナの台詞が脳裏をよぎる。帽子を被りなおそうと頭に手を伸ばしかけ、脱いでいたことを思い出した。ここは室内だ。当たり前のことだった。

「明日はブルーの好きなシチューにするわね」
「悪い、な」

遠まわしな感謝の意を述べると、正しく意味を汲み取ったエレンの頬が紅潮する。ハンスは既に泥酔していてこのくすぐったい雰囲気になどまるで気が付いていない。
並べられた料理を完食し再び美味かったと告げる。滅多に感想を口にしないブルーから日に二度も言葉にされ、エレンの瞳は潤み、微かながら熱を帯びた視線と微笑みが返された。

『エレンさんの気持ちは判らないけど』

―――ティナ。多分俺は、エレンの気持ちを知っている。



木陰で少女を見つけたのは全くの偶然だった。
図書館で調べ物をした帰り、きらめく海の輝きと香りに誘われるように海辺近くの森へと足を踏み入れたブルーの視界に、見慣れたツインテールが映ったのだ。木の幹が邪魔をして肩しか見えないが、ティナは膝を抱えているようだった。
小さな身体をさらに丸めて、一本の大きな木の根元に座り込んでいる。
膝の間に顔を埋めているため表情は窺えない。けれど、彼女を取り巻く雰囲気が、いつものしなやかで強靭なものではないことだけは容易に読み取れてブルーは焦りを覚えた。

「…誰?」

どうしたものかと思案していると、ティナの方から語りかけてきた。

「…ブルーだ」
「ブルーさん」

硬かった声音が途端に柔らかみを増す。それは傍目には微妙な変化だが、青年にとっては絶大な効果を生み出すものだった。
無意識にそれをやってのける少女を罪だとさえ思う。

「丁度よかった。わたし、ブルーさんに謝らなくちゃいけないって思ってたの」
「…謝られるような覚えはないが」
「ううん。あるんだよ」

艶やかな茶髪を肩口に滑らせながら、緩慢な動作で面を上げたティナは笑った。弱々しいそれはブルーの、押し隠さなければならない庇護欲を掻き立てる。

「わたし嘘をついた。カールさんが、エレンさんを好きでも構わないなんて、」

そこまで言って唇を噛み締めるティナ。

「う、そ、なのに。…嘘なのに」
「―――判ってる、さ」
「二人とも楽しそうに話をしているの。カウンター挟んで、エレンさんが持ってきた料理の本を覗き込みながらこれの代わりにこれを入れたらどうか、とか。隠し味にこんなものは、とか」

なんて悲しげな顔をするのだろう。やめてくれと叫びたい。
でなければ彼女が潤む瞳を誤魔化すため忙しなく行っている瞬きの、回数が重ねられるたびにブルーの心がささくれていくような気がした。

「たぶん、エレンさんもカールさんを好きなんだと思う」

そこまで仲睦まじげならばそう考えるのは仕方無いことだった。
何故ならばエレンが時折、ブルーに向ける熱い眼差しをティナは知らない。

「だから言わないで…隠していようって。このままが、ベストなんだって」

不意に木々の間から見えるカフェの扉が開かれて、少女が慕う青年の姿が現れた。
きょろりと一度、辺りを一瞥したカールは茂みの中に立ち尽くすブルーを目に留め、こちらへ向かって歩き始めた。その後ろにはエレンの姿もあった。
建物を背にしているため気付かないでいるティナは、精一杯の笑みを顔に貼り付ける。

「頭では判っているのに、心が追いつかなくて…お店を、飛び出しちゃって」

彼女の涙が頬に道筋を作った時。それがブルーの限界だった。


辛い片恋。隠された横恋慕。それは傍目には均衡で安定的。
現状がベストなのだと言って少女は笑った。

―――それでも、青年は崩し方を知っている。


空気が凍った。
この場に居る己以外の人間は、本当に心臓の一つでも止まったかも知れないなどと、頭の奥でブルーは考えた。腕の中に閉じ込めた少女はかちこちに強張っている。
しゃがみ込んでいたティナの二の腕を掴み、わけも判らず為されるがまま立たされた小さな身体を引き寄せて、離れないように。離さないように。木の幹と己の身体で囲った。

奇異な行動をしたわけではない。ただ愛しいと思う人を抱き締めただけ。

「―――エレンさんっ!待って…!」

穏やかでない声に、ようやっと傍観者の存在に気付いたティナが、その正体を認識するなりブルーの身体を離そうともがき始めた。カールさん、と必死で名を呼ぶ。しかし当のカールはと言うと、抱き合うブルーとティナを見た刹那どこかへと駆け去ったエレンを追い、既にこちらに背を向けていた。

「ブルーさん離して!」
「悪いが嫌だ」
「どうしてっ…いくらなんでも、こんなのって酷い!」

いくら牧場をやっていたとて、ティナの腕力はブルーに適わない。加えていま、少女の両腕はブルーがしっかりと互いの身体の間に挟んでいるのだから、彼女には手段がなかった。

「ねえ、どうして…!ブルーさんはわたしが嫌いだからこんなことをするの?」
「…お前が、泣くからだ」
「だってっ」
「俺は、応援出来ない、と言ったはずだ」
「…どうして…」

聞かれたところで己にも己がどうしたいかなど判らない。後悔が押し寄せるばかりだ。
ティナに気付かなければ良かった。気付いても近づかなければ良かった。近づいて声を掛けられても、応えなれば良かったのだ。けれどどれも悔やむには遅い。

もう均衡は崩れてしまった。
もう均衡を崩してしまった。

「―――お前が好きだからだ」

腕の中、少女の力が抜けていくのが布越しに伝わる。
甘い感情からではない。それとは正反対の、絶望という渦がティナをそうさせた。


初めてエレンの気持ちに気が付いた時のことを、ブルーはよく覚えている。
彼は思わず笑い出したくなった。楽しさからこみ上げるものではない。その感情のうねりは、可笑しいなんて言葉一つでは片付けられなかった。
こんな展開を一体、誰が予想しただろう。


「……く…った」

ゆるりと力なく首を振って、呟くティナ。
心持ち身を屈めてブルーは少女の顔を覗き込んだ。

「聞きたくなかった…!」
「ティナ」
「っそんなの、聞きたく…なんか、なかったよ!」

何度も、何度も繰り返してはブルーの胸を切り刻む叫びに、青年は堪らなくなって、ころりと零れ落ちたティナの涙を口で掬った。
途端に身を張る少女の雫はどこまでも塩辛く、混乱を如実に表していると思った。それでも、悲しみの恋を貫くティナを応援出来るほどブルーは大人ではなくて。青年の抱擁に、少女が応えることもなかった。


こんな展開を一体、誰が予想しただろう。
浮かび上がったのは、抗いようのない現実。仕組まれたような片恋同士の一方通行。

けれど均衡は崩れてしまった。
もう均衡を崩してしまった。


そして、崩壊が、始まる。



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