身体を逆さにされるような激しい眩暈に、慌てて傍らの壁に手をついた。
ここのところ続いている不調の原因は判っている。フラフラする頭で何とか辿り着いた扉を、開いた勢いのままティナは室内に雪崩込んだ。


::: ferida :::


薄れゆく意識の中覚えていたのは、犬のユアがうるさい、ということだった。
次に慌てたような足音と苛立ちの混じった嘆息。後のことは記憶にない。

だからティナは目が覚めたとき、どうして己がベッドに寝ているのか判らなかった。ユアが尻尾を振って擦り寄る中、もう一匹の家族である豚のユエが、主人の目覚めを喜んでいるかのようにブヒッと間の抜けた鳴き声をあげる。
けれどもっと疑問なことがティナにはあった。

「どうしてハヤトさんがここに?」
「玄関先で見せ物のように倒れておいてそれを言うのか」

それとも俺はそんな人間すら放置するほど非情な男だと思われているのか。
ベッドの傍らのソファに腰掛け本を捲っていたハヤトに、硬質な声で返されて、ティナは慌ててかぶりを振る。合わせてすっかり形の崩れたツインテールが揺れた。

「…ごめんなさい…」
「別に謝らせたいわけでもない」
「あ、えっと、ごめんなさ…あわ、す、すみませ…っ!」

口を開けば出るのは謝罪ばかりで、喋れば喋るほどドツボにはまっていく。そこでティナはようやく『黙る』というもっとも無難な方法を思いついた。両の手で口を押さえたティナにハヤトが漏らしたのは小さな嘆息だ。
それが切れ切れの意識の中で聞いたものとぴったり一致すること。そしてそのときの己の推測が外れていないであろうことも彼女は理解した。恐らく彼は苛立っている。

住居が近いこともあってか、大工三人衆とは村の他の人間よりも付き合いが頻繁だ。ティナはまだこの村に住み始めて一年と少しだけれど、常にポーカーフェイスなハヤトの機嫌を、雰囲気で察知出来る程度には親しいつもりだった。

しかし肝心なところが判らない。どうして彼が苛々しているのか。

「あの、もしかして、ハヤトさんに遅刻とか無断欠勤させてしまいましたか?」
「今日は火曜だ」
「じゃあ、他に用事があったのに、潰してしまったとか…」
「お前も知っている通り、休みの日はいつも暇だ」
「……わたし、重かったでしょうか」
「俺はそこまで非力じゃない」

己の中であがるだけの原因を並べてみたがどれも否定されてしまう。
他に考え付かず、かと言ってこうしていても青年の雰囲気が和らぐわけでもない。先程の『黙る』という手段は確かに無難だが懸命ではなさそうである。ティナは困り果てた。
彼女の心境を察知したかのようなタイミングで、ハヤトは捲っていた本を閉じ、静かにテーブルに置いた。こんなときでも所作が乱雑でないところに彼の気質がよく表れている。だがその際初めて合った視線はやはり、苛立ちからか普段の青年よりやや鋭利だった。

「何日眠っていない」
「え」

唐突な問い。簡潔なそれにはしかし青年の苛立ちが凝縮されていているようで、ティナは思わず身をこわばらせた。原因は己のことか、と思い至ると同時に疑問が浮かぶ。何故彼が己のことで怒っているのだろう。

「え…あの、ちゃんと毎日、日が変わる前にはベッドに入ってますけど」
「…俺は、きちんと眠れているか、と聞いているんだが?」
「そ…れは……。でも別に、身体は休まってますし、」
「言いくるめたいならそのやつれた顔をどうにかしてからにしろ」

そう言われては返す言葉も無い。
だがあまりに高圧的な物言いに、ティナもすこし機嫌を損ねて口を微かに引き結んだ。それを目にした青年が眉を寄せ額に手を当てる様を見て、余計に怒らせてしまったろうかと考えたがそうではなかった。

「…悪い。責め立てるために待っていたわけではないんだ」

意外な台詞にパチパチと目を瞬かせるティナ。
ハヤトは暫し逡巡して、それから幾分穏やかさを取り戻した声で紡いだ。

「お前が寝ている間…お前の心に触れようか、触れまいか迷っていた」

いつも率直に淡々と物を言う青年には珍しく、一言一言選ぶように。

「この一月、気が付いてはいたんだ。日に日に顔色が悪くなるお前を見て何度そこに触れようかと思った。だがお前は隠したがっていたから、俺も何も言うまいと決めていた」

血液が沸騰する。
目の前の青年には気付かれていたのだ。彼女が一月もの間、心の内に抱えていたものを、消化しようと必死になっていたことを。

「しかしそれは間違っていたようだ」

ティナは全身が熱くなるのが判った。それは隠し通してきた重大な秘密をあっさり暴かれたことに対する、とてつもない恥と怒りだった。
力の限りを込めて、タオルケットを握り締める。

「…じゃあ…これからも何も言わずにいてくれればよかったんです」

勢いで溢れたそれの、語気の強さに己のことながら驚愕した。
ハヤトも微かに瞠目したが、直に穏やかな瞳で、声で返す。

「…お前が倒れなければそうしていた」
「放っておいてくれればよかったんです!そんなの!」
「出来るわけないだろう」
「でも!だけど、わたしが悩んでいようが倒れていようが、ハヤトさんには何も」
「―――迷惑を掛けないと言いたいのか」

遮った青年の声音は静かで、けれど圧倒的な威圧感があった。ティナは一瞬怯んだものの怒りに身を任せていたので構わず口早に切り返した。

「そ…そうです、だからわたしのことなんてあなたに関係ない…!」

しかし今度こそ押し黙る。
正確には、身体が硬直して黙らずにいられなかった。

目前にはハヤトの顔。しかもかなり近い。その双眸には激情が渦巻いている。何故か痛む手首。骨が悲鳴をあげる。天井で輝いていたはずのライトの光は、自分に届かなくて。新しくはないベッドが軋む。
得られる断片的な情報に、ティナはようやく己がハヤトに引き倒されたことを知った。
押さえつけられた手首に一層の圧力が掛かり、痛みと本能的な恐怖に身をよじる。けれどそれはティナに圧倒的不利な状況を思い知らせるだけとなった。

「っ、な…何するの…!離して!痛い!」
「…心身どちらかに傷をつけるなら、目で見えるぶん身体のほうがマシだろう」
「何を、言って…!」

力は緩まない。まるでびくともしない身体に背筋から恐怖が湧き上がる。しかし弱味など見せまいと青年を睨み返した少女に、青年の一言は痛恨だった。


「―――お前には、何の悩みもないんだろうな」


ひどい。どうして、誰も彼も平然と。そんなことを言ってのけるのだろう。
心の奥底まで切り刻むかのように。

「村の人間がお前のことをそう言うたび、そんなわけがあるかと思っていた。悩みのない人間なんているか、それはあまりに無神経な言葉だと。…今日まで俺は感じていたが」

ティナの全身から力が抜けた。ただしっかりと見開かれた瞳だけはハヤトを凝視する。

「お前の反応で考えが変わった。お前のは悩みでも何でもない。ただ自分は不幸だと酔いしれているだけだ。そんなものを悩みと呼ぶな。―――悩みを抱える人間を侮辱している」

頭からつま先までさっと冷えていく。感覚がなくなってもう手首の痛みも感じなかった。

「…!…ひ、ど……ひどいっ!ひどい!どうしてそんな…離して!…触んないでっ!!」

情け容赦ない言葉にティナは渾身の力でもがいた。実際にはやはり腕はびくりとも動かなくて、掛けられた布団の上からのしかかられているため足も拘束されたままだったが、それでも唯一自由な首を激しく振ってひどい、離して、と叫び続ける。

「離してよ!どこか行って!もう放っておいて…一人にしてよ!あなたなんか大嫌いっ!」
「お前が俺を嫌っても、俺の方は違う。だからもう遠慮はしない」

刹那手首の拘束が解けたと思えば、ぐるりと目まぐるしく視界が切り替わって。

「これ以上…一人で壊れていくな」
「……!」

途端に息苦しくなる。叫びすぎて呼吸が乱れたのかと考えたが、違った。ハヤトの肩に顔を押し付けられ―――抱き締められたのだと気付く。先程の鞭のように鋭い言葉とは裏腹に彼の抱擁はどこまでも優しく、あまりのギャップに面食らったティナは抵抗を忘れていた。

「…ハヤ…」
「確かにお前はいつも底抜けに明るいが、だからと言って闇がないわけではないだろう」

当然だ。新しい地で、新しいことに挑戦して。手探りで進めていくしかない中、失敗も沢山経験した。不安がないはずがなかった。夜通し眠れない日だって幾日もあった。
けれど一番の不幸はティナがそれを隠す性質で、その方法にも長けていたことだった。
少女の表情に、態度に人は一点の曇りも見つけない。結果彼女に対していつも明るいねと言って微笑むのは誰の咎でもなかった。それは完成された悪循環だ。

「落ち着いて思い返してみろ。お前の明るさに救われた人間がいることは事実だ。しかしこの村の中に、お前にそれを強いた人間がいたか。翳りを見せることをよしとせず、弱音を吐くなと戒めた人間がいたか。誰一人として大丈夫かと声を掛けてはくれなかったか」
「―――っ」

弱々しく、けれどしっかりと首を振る。喉の奥から変な声が漏れそうになって、ティナは慌てて唇を噛み締めた。みるみるうちに視界が滲んでいく。

「ティナ」

小さな背中を撫で擦りながら、青年は囁いた。

「何でもいい。小さなことからでいいんだ。―――吐露することに慣れていけ」
「…ぅ、ぇ…っ」


結んだはずの唇の合間から感情が溢れる。

弱い自分をさらけだすことで、人が離れていくことが不安だった。
己では出来ないことが他人には容易く、何故そのようなことで悩むのかと、言われるのではないかと恐れていた。
けれど、ほんとうは。

「…誰、かに、気付いて、ほしかっ…たんです」
「ああ」
「こんな、わたしでも嫌、じゃないって…、言ってもらい、たかった」

ぽとりと落ちて、ハヤトの服に吸い込まれる涙。
彼はそれに構う様子もなく退きかけたティナの頭をより強く縫い留めた。

「いい。…だから、泣いていろ」


初めて誰かに、悩み苦しむことを赦された気がする。
生まれたての赤子のように、ティナは、ハヤトに縋って泣いた。



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20071216:加筆・修正