季節は冬の、月曜日。
小さな村にある小さな店、カフェ・キャラウェイの定休日ではない。
けれどカールが切り盛りするその店の扉には[閉店]のプレートが揺れている。

それは青年が、恋い慕う少女の願いを聞き届けるための臨時閉店。


::: fechado :::


「ティナさん、駄目だよ!メレンゲを一度に入れちゃ」
「えっ、そうなの!?」
「始めは少しだけ生地に混ぜてなじませてから全部加えるのさ」

ぎこちなく動いていた少女の手からヘラを掬い取り、カールは手際よく少量のメレンゲを混ぜ合わせた。生地の泡を潰さないようにさっと、けれど満遍なく混ぜ込めるその慣れた手つきに感動するティナ。

「すごいね、カー君」
「そりゃあこれで稼いでるからね〜」

にっこりと笑うカール。童顔で、口調も幼くて、まるで年相応には見えない少年―――否、青年だけれども、菓子について語る時の彼にはとてつもない心強さがあった。それを感じたからこそ少女も、毎週火曜日の定休日には菓子作り教室の約束を取り付けてもらっている。
後はやってみて、と再び渡されたヘラを握り締め、ティナは薄黄色の生地と対面する。

「つ、次はメレンゲ全部入れていいんだよね?」
「そう。そしたら軽く混ぜて、振るった小麦粉とふくらし粉を入れておくれ」
「う、うん…」

ビクつきながら恐る恐るメレンゲを混ぜたティナに、カールは早くも駄目出しした。

「あわわっ、駄目だよ、掻き混ぜちゃ!」
「えっえっえっ!」
「せっかく立てた泡が潰れちゃうよ!切るように混ぜるのさ〜!」
「切る?…切るの?」

ティナは唐突に、まな板の上でニンジンを切るかのような動きをした。
切るという単語で連想した動きを素直に行ったのだろうけれど、カールの言う『切るように』という動作とはいささかのずれがあった。

「そうじゃなくて、こうやって……!」

たまらずカールはヘラを握るティナの手に己の手を覆い被せた。
悪気のない少女に痛めつけられる生地があわれで、咄嗟に出た行動だったのだけれど、我に返るとみるみる羞恥が湧き上がってきてしまう。
握り締めた手の感触。柔らかく小さなそれ。

まずい、と思った。

心そぞろになる二人きりの空間。けれど何より大切な時間だからこそ、壊すことを恐れていつだってずっと不用意な接触を避けてきたのに。それが、こんなにも容易く。
吸い付いたみたいにティナから離れない己の掌に心中で叱責を飛ばす。

「えっと、どうすればいいの?」

けれどティナの声音はきょとんとしていて、全く意識していない様が表れていた。
それを耳にして心臓に痛みが走る。
どくんどくんと従順に送り出される血液はカールの頬を染めた。バニラエッセンスに混じって彼女の香りが鼻腔をくすぐった時、急速に跳ね上がった彼の鼓動は意識を朦朧とさせた。

「…カー君?」
「……」
「顔赤いよ、だいじょうぶ?」

ティナの声が遠くに聞こえる。耳の奥にこだまするそれは一つの台詞を呼び覚ました。


『カー君、お願いがあるんだけどね』

どうしておいらはティナさんにお菓子作りを教えているんだっけ。そうだずっと前にティナさんが美味しいお菓子を作りたいと言ったからおいらが教えてあげると言ったんだ、確か。でもそれは毎週火曜日にって話だったのに、どうして月曜の今日、わざわざお店を閉めてまで。

『ケーキをプレゼントしたいひとがいるんだ』

ああ。
そうだ。

『だからカー君に手伝ってほしいの』


あしたが かんしゃさい だから だ。


「カー君ってば!」

頬に軽い衝撃。白濁とした視界が途端にクリアになる。
自由な左手で青年の頬を軽く叩いていた少女は、ようやく焦点の定まったその瞳に安堵の息を吐いた。
立ち尽くしたまま刹那意識を飛ばしていたカールの全身には、真冬だと言うのに薄らと汗が浮かんでいる。自身の中にはいまだ忙しない鼓動が響く。握る少女の掌だけが唯一ひんやりと心地よかった。

「…あ、…おいら…」
「ほんとにだいじょうぶ?汗かいてるよ?ちょっと座って休んだほうが…」

ティナはやんわりとカールの手を解く。椅子を持って来ようとしたのだろう。
けれどそんな気遣いよりも、柔らかな感触を失った手の虚無感と名残惜しさの方が勝って、カールは再度細腕に手を伸ばした。
今度は、意識的に。
背後から突然腕を引かれた少女の、驚いて振り返る様が、スローモーションのように映るのをぼんやりと感じていた。視野の端に見える透明なボウル。中にたゆたう黄色い生地。

その完成品は誰のための物だ?

ずっと、毎週火曜日には、少女を独り占めしてきた。
それが菓子作りの指導という名目でも、構わなかった。
巡ってきた幸運を、過分に望むまいと、己を戒めてきたつもりだった。

―――抱き締めるつもりなどなかったのに。


「…、え…と」

戸惑いを一言、こう漏らして。
思い出したようにカールを押し戻そうとするティナは想像以上に非力だった。
時々胸にぐいと、可愛らしいほどに弱々しい圧力が掛かるだけ。青年の喉をくすぐる細い髪の感触と等しいくらい、こそばゆいその抵抗。

「あ、気分悪いの…かな、カー…くん」
「…ごめんよ」
「だい、だいじょうぶ。ちょっとびっくりしたけど…全然…、あっち椅子あるし、行こう…?」

ずるいひとだ。意図的に力を込めていることに、気付いているくせに。
離れかけた頭を押し留める。殊更強く肩口に押し付けて、カールは呻くように囁いた。

「ごめんよ。おいら、このケーキだけは手伝ってあげられないや…」

己すら初めて聞く、嘲笑を誘うような掠れた声。腕の中でティナの身体が強張った。

恐らく今後、この店で、二人の空間を共有することもなくなるのだ。それは限りなく確信めいた予感だった。少女の柔らかさと温もりを知ることを代償に打ち壊したのは、手放したのは、間違いなく青年本人だから。

「はなして、」

カールの真意を汲んだティナはいよいよ抵抗を強める。けれどそれがカールにとって取るに足らないものであることに変わりはなかった。
つと移した視線の先には黄色い液体を抱えたボウルがあった。既に生地にはぷつぷつと沢山の気泡があがっている。早く粉を入れて焼き上げなければ、ひどく不恰好なケーキが出来上がるだろう。


ああ、でも。別の男へのケーキなんか駄目にしてやったっていいかもしれない。


明日に行事を控えた村はどこか色めきたっている。その昂ぶりを沈めるかのような、冷えた風がカフェ・キャラウェイの横を鋭く吹き抜けて。
扉に掛けられた[閉店]が、カランと乾いた音を立てた。



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