スマートで、心優しくて、おまけにとってもキュート。
ド根性牧場主ティナは、キャラウェイ店主のカールをそう評価している。
互いに新たなこと―――片方は牧場、もう一方はカフェ―――を始めたのが同時期であるということもあって、たちまち意気投合した二人。少女にとって青年はもはや親友と言っても過言でない存在だった。唯一無二の、大切な友達。

だからティナは、唐突のカールの行動に面食らった。


::: ロマンサ :::


停止してしまったのは、青年の表情が今まで見たこともないものだったからだ。

「……、え?」

つとめて普段通りに、しようとした呼吸がかえって奇妙な間を生んだ。
カールは先刻捕らえたティナの手を、ゆっくりと指先でなぞりながら微笑を浮かべる。

「…何と言うか、予想した通りの反応だね」

五秒ほどの停止をはさんで。
ようやくティナはあらん限りに目を見開き、けたたましい音を立てて座っていた椅子を蹴り倒し、カールから素早く距離を取り、彼に握られていた手首を庇うように反対のてのひらで包み込み、魚のように口をぱくぱくと動かして。ぜんまいが切れたように、呆然。

「なっなっ、なんっ…、!」
「ティナさん、返事は?」
「…な、なんのっ」
 
落ち着いた足取りでティナとの距離を詰める青年の顔つきがまた変わった。
今日まで目にしたことのないそれ。眼差しはどこまでも強い。

「おいらの言葉、聞いてたよね」

どうしてか妙な胸のざわめきを覚え、ティナは自分でも知らないうちに後ずさりしていた。けれど踵が壁に当たる鈍い音を耳にした刹那に焦りだけが倍加した。
酸素や冷静さや、とにかく色々な物が不足して回らない頭を必死に回転させる。


何の話を。していたのだろうか。先程まで。
確か―――そう確か、季節ごとの果物だとか、それを使った美味しいお菓子だとか、そんな他愛も無い話をしていたはずだ。今は栗が旬だからケーキでもグラッセでもいける。いやマロンケーキよりサツマイモプリンだよ。おいらはリンゴがいいな。わたしはイチゴとオレンジも好きだな。もう季節関係ないね。そんなとりとめも無い話を展開していたのに。
ティーカップに手を伸ばした少女の手をしっかりと捕らえ、唐突に。青年は言った。

「キスしたい」
「……、え?」

ここから、始まりの文章へと物語は繋がって。


「待ってよ、き、急に何で!」

後ろが駄目だと悟ったティナは背を壁に擦らせて沿うように横へ進む。
え、とかなんで、とかどうして、と言った疑問だけが次々、ぽんと頭に浮かんでは少女の頭を占領していく。決してキャパシティが多くない脳みそは、そんな細切れにされた言葉でたちまちぎゅうぎゅうになった。不意に、目の前が暗くなる。
トン、と。
至極自然な、けれど確固たる信念のこもった動作で。ティナの両脇に腕を付き―――その退路を遮ったカールは、ティナのあまりにも顕な戸惑いに苦笑した。

「すごいよティナさん。『困ってます』って顔どころか全身に書いてある」
「だっ、だだだってって、言うかっカールくん退いてよ!」
「それは出来ないなあ」

また微苦笑。口調はどこまでも普段通りのカールだ。しかしブラウンの瞳の奥に、先程から垣間見えているものが、決してティナを安心させてはくれなかった。その正体を、パンクしそうな頭で必死に考える。
おかしい。何故青年は急にこのような行動に出たのだろう。

「カ、カールくんからかってるでしょ」
「本気だよ」

カールの瞳の奥の何かが強い光を帯びるのが見えた。心臓がどくりと脈打つ。
諦め悪くじりじりと身体をずらすが、いとも簡単に、いなすように軽やかに、カールの片腕一本でその動きは制御された。やんわりと押さえられた肩が、熱い。
彼のてのひらはこんなにも大きくて、熱かったか。身長は、肩幅はこんなにあったか。ティナを威圧している、彼の胸板はこんなに広かったか。―――カールはこれほどまでに男性だっただろうか。
青年の瞳に宿るものの正体を、少女は理解する。それは激情だ。カールは紛れもなくティナを欲している。男として、女を。

なんで。なんで。なんで!
ティナは錯乱していた。視界が歪むが、涙目なことにも気付かないまま唇をかみ締める。


「……ああ、もう」


と、ふんわりと。温かなものにくるまれて。

「…ずるいなぁ。そんな顔されちゃおいら、何にも出来ないじゃないか」
「だってなんで、なんっ…」

今更のようにどっと涙が溢れてくる。ティナは咄嗟にわざとらしく咳き込んだが、明らかに誤魔化しきれない量だ。慌てて拭おうとして、けれど、カールの肩口に顔を押し付けられるほうが先だった。
間抜けなことに、抱き締められていると気付いたのはその時で。
店内には紅茶やバニラエッセンスなどの香りが漂っている。密着した青年の身体からも微かに甘い香りがしたけれど、カール自身の香りであろうそれはティナを不思議と安心させた。

「…なんか…カールくん、いい香りがする…」

ティナにしてみれば、散々動揺と混乱をさせられた後に与えられた安心感からぽろりと漏れた言葉で、さして深い意味はない。なかったのだが、それはティナの知らないところでずっと自制をきかせつづけているカールにはあまりに効果がてきめんだった。
がくんと身体が揺れる。抱き締められている為必然的に、崩れ落ちたカールに従ってティナも板張りの床に座り込んだ。
そのカールが、思わぬ少女の言葉に、脚の力が抜けてしまったことは知らないまま。

「わっ!」
「ティナさん……それ、煽ってるの?」
「え、なんで!?」

言ってはみたが、カールだってティナにそんな意図がないことは判っていた。だからこそ性質が悪いと彼は常々思っているけれど。

「ホントに、きみって人はさ…」

呆れたようで、それでもどこか温かみを含む呟きに目を瞬かせることしか出来ないティナ。
色々なことが起きて混乱する頭で、とりあえずこの少し苦しい体勢を整えようと思い立ち、少し身じろいでみる。けれど解放されるどころか再度引き寄せられて、どきりとした。
青年の胸は、腕は。やはり少女よりうんと大きくて、力強かった。

「賭けだったんだよねー」
「え?」
「だってティナさん、全然おいらのこと男だと思ってないから」
「……、そんな…ことは」
「あるでしょ。ヘンに信頼して安心してくれちゃってさ。そもそもティナさんには警戒心ってものがないんだけど。だからまあ、賭けに出てみたって言うか。…自分の中で決めてたんだ」

ようやっと身体を離される。両肩に手を置き、そっとティナを引き離したカールの表情を、その目を見た際、ティナは時間が止まったのではないかと錯覚した。
真摯な瞳だった。深くて、澄んでいて、広がりを含んだ男性の瞳。

「ティナさんが、おいらの前で『好き』って言葉を百回言ったら」

薄茶色の、柔らかそうなくせっ毛が瞳に少しの影を落とす。それがまた絶妙な陰り具合で、幼い顔をしたカールの表情をひどく大人びて、色香のあるものに豹変させていた。

「―――いい“友達”の皮を脱ぎ捨ててやろうって」


ああ、この人はきっと、思っていたよりもっとずっと大人なんだ。


立て続けに起きる物事に、もはや考えることを放棄していたティナは、ぼんやりとした頭の中でそれだけを反芻してゆっくりと瞬く。

「ほんとはさ」
「う、ん」
「別にキスなんて言うつもりはなかったんだ。…いや、そりゃ、したいけどさ。でも」

片側の口角だけを引き上げた、今まで見たことのないカールの微笑みに心臓が跳ねた。
心を奪われるとはこういう感覚を言うのかも知れなかった。

「今日はやめとくよ」

ティナを優しく押し戻し、軽やかに立ち上がるカール。
こんな時でもフェミニストな青年は、未だ床にへたり込んだ少女に、当然のように手を差し出してきた。けれどティナは逡巡する。

「あ…」

今までならその手を取ることに、カールに触れることに躊躇いなんてなかったのに。

「…まあ、第一段階はクリア。かな」
「え」
「ここまでしたのに普通に手なんて握られたら、今度こそ襲ってたよ。おいら」
「えっ」

さらりとそんなことを言って、至極爽やかに笑う青年に、自分はもしかしたらとんでもない獣を呼び覚ましたのではないかと青ざめた。
それでも、カールは出した手を下ろすことはなく、ただティナが動くのを待ってくれている。少女を喜ばせる、可愛くて美味しいお菓子を作り出すてのひらだ。
抗いがたい衝動を感じながらティナは、そっと自らのそれを重ねた。

「ちょっと焦った程度でいいからさ。もっとちゃんと見てね。おいらのこと」
「…ふ、普通は焦らなくていいから、とか言うとこじゃないの、ここ」
「冗談でしょ。ティナさんが知らないところで、おいらはずっと待ってんだ」

どきどきする。繋いだ手が燃えるように熱い。比喩じゃなく、心臓が破裂しそうだ。
こんな鼓動を世間は何と呼ぶのだっけ。


スマートで、心優しくて、おまけにとってもキュート。
ド根性牧場主ティナは、キャラウェイ店主のカールをそう評価している。
少女にとって青年はもはや親友と言っても過言でない存在だった。

のだけれど。

強引に叩き込まれた高鳴りは、もう、ティナの胸に住み着いてしまったから。
今更、前のような関係になれという方が無理だった。


「だからティナさんも少しは―――焦ってね」



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