タイミングこそ唐突だった。
けれどよく考えてみれば―――いや、そんなことしなくても。ティナが気付いたそれは至極当たり前で、彼が生まれてから存在している現実の一つでしかない。
ただ彼女が今までずっと、その事実をあえて、見ないようにしていたのかも知れなかった。

それでも。
彼は、オンナノコじゃない。


::: M.A.N :::


ティナはカールといることが好きだ。
と言ってもそこに甘やかしい感情などは、一切含まれない。
むしろ日ごろ何かとティナにアピールしてくる男性諸君と違い、そういう話を仄めかさないカールだからこそ、ティナは一緒にいて楽しいと思えるのである。
そんな理由で、今日も今日とてティナは一通りの作業を終えてカフェに遊びに来ていた。

「こんにちはー!また毒見に来たよ!」
「開口一番不吉な台詞をありがとうティナさん。売り上げ落ちたら責任取ってね」

カウンターの奥、グラスを磨きながらにこにこと返すカールにティナはピシリと引きつった。
冗談ではない。カールの腕のよさと他に喫茶店がないという理由から、キャラウェイの町での人気はすさまじいのだ。つまり月々の売り上げもそれ相応の額になるということ。
日々の暮らしに余裕が出たとは言っても、それはあくまで以前に比べればの話である。蓄えなど皆無に等しいティナに補償出来るわけがない。

「ごめん。明日新鮮な卵あげるから許して…」
「えー…どうしようかなあ」
「スペシャルミルクもおまけするから!」
「よし乗った」

良かったあ、と半ば本気で安堵して、てのひらで胸を押さえるティナ。
カールという青年は有言実行タイプなのだ。事実ティナは、数週間後本当に請求書を叩きつけてくるカールの様子を鮮明に脳裏に思い描くことが出来た。それを考えると明日一日、卵とミルクを提供することくらい大した痛手ではなかった。
どさっと力の抜けたようにカウンター席に座ると同時、まるで予定通りのタイミングだとでも言わんばかりに、カールは軽やかな音を立てて少女の目前にティーカップを置いた。


***


「…で、ダンったらものの見事に躓いて転んでさ、皆で大笑いだった!」
「あの人一倍身なりに気をつけてるダンさんを泥まみれにするなんて…可哀想だなあ」
「むしろ、ダンは泥んこになって労働することを覚えるべきだと思うけど」

ティナは笑顔で語りながら最後のクッキーを頬張った。さり気なくその皿を下げ、手早く洗い棚に仕舞ったカールはちらりと窓の外を見た。既に空は深い紺色に明度を落としている。
その視線に気付いたティナが肩を竦めて上目遣いに青年を見上げた。さらに僅かながら小首まで傾げている。

「えっへへ。実はちゃっかり用意して来ました!」
「…」
「カールお願い。…今日ここに泊めて?」

付き合いの長いカールだから判るが、これは滅多に出ない少女のおねだりポーズだった。

「…ティナさん」
「だって、もっと話がしたいんだよー」

用意周到なティナをジト目で睨み据える。数秒間続いた小さなバトルで、先に折れたのは結局青年の方だった。

「……全く。しょうがないなあ…」
「やったー!」

はあ、と聞こえよがしに溜息を吐くが、少女は全く気にしていない。最も、それが通用するような神経の持ち主なら事前に準備などして来ないだろう。
カールはこの、稀に発動するティナのおねだりを断れたためしなどないのだ。
彼の脳内でのみひっそりと記録されているメモによると、今のところ、全敗中。
ぴょんと飛び跳ねるティナを見ていると、まあいいかと思えるのも事実なのだけれど、この何度目かの『お泊り会』が、もし他の男共に露見した時己の身はどうなるのだろうと一抹の不安を感じずにもいられない。
カールのそんな苦悩をよそに、ティナはただただ大喜びだった。


「先にお湯貰っちゃってごめんねー。あがったよ」

店の奥にあるプライベートスペース。リビングとして使用しているそこに、ひょっこりとティナが顔を出した時、カールはまたも盛大に溜息を吐きたくなった。
寝間着にはこだわりがあると日頃から豪語している少女らしく、今彼女の身を包んでいるそれは、シンプルなデザインながらも肌触りがよさそうだ。質の良さそうな布地は、日頃快活で男勝りなティナの女性らしいボディラインを仄かになぞっている。

「……ティナさんさぁ…」
「なに?」

まだ湿った柔らかそうな髪を肩にこぼして、あどけない仕草で首を傾げるティナを見て、頭を抱えたい衝動にかられた。

彼女をここに泊める度に思うのだが―――あまりに無防備過ぎやしないだろうか。
いやそもそも一人暮らしの男の家に平然と泊まりにくること自体が、カールを全く男として意識していないことの表れなのだろう。
悲しい事実に内心打ちひしがれながら、青年は声を絞り出した。

「…何でもない…」

まるで全力疾走した直後のように喉がカラカラなのは気のせいではない。そしてその原因も、聡明な彼には分かり切っていた。

「……おいらもシャワー浴びてくるよ」
「そだね、いってらっしゃい!」

今、これ以上、ティナと同じ空間にいるのは、色々な意味でまずかった。色々な意味の解説と内訳については、静かに黙秘権を行使する。
そそくさと立ち上がったカールはしかし、ふと伝えなければいけないことを思い出して、ソファにゆったりと身を沈めて暢気に彼を見送っていたティナを振り向いた。

「そうだティナさん。今日はおいらの部屋で寝てね」
「へ?」
「って言っても元・おいらの部屋になるんだけど。前までティナさんが使ってた客間とおいらの部屋、こないだ入れ替えたんだ。客間のほうが収納多かったから」
「そっか、うんわかったー」

ニコッと微笑んで頷くティナ。
それを見届けて、再度彼女に背を向けた青年は、鉄のごとき己の理性に感動すると共に、今日は盛大に水を浴びようと固く決意した。


***


ティナは、カーテンの隙間から差し込む光に瞼を攻撃されて、薄っすらと目を開けた。
目に入る天井が自宅のものではないことに、一瞬混乱したものの、カールの家に泊まりに来たことをすぐに思い出して安堵した。

あったかい。

日差しだけでなく、彼女を包む羽毛布団は実にふんわりとしていて、心地よい温もりでティナの全身を包んでいる。

たのしかった。

まだ覚醒しきっていない思考が、切れ切れに、けれど充分に満ち足りた気持ちをぽろぽろと紡ぐ。
昨夜はカールと深夜までお喋りに興じた。彼の淹れてくれた紅茶を飲みながら、リビングでただ語り合い、笑い合った。牧場を始めてからというもの、寂しい独りの生活が身に沁みていたティナには、とても楽しくて貴重な時間だった。

そして、この羽毛布団。

カールは己のことをひけらかすのをあまり好まないが、それでも彼が選び抜くものは一つ一つが上質で、センスが良い。それは寝具にしても同じことだとティナは勝手に思っている。寝具マニアのティナを大満足させるほど、この家の客間のベッドは最高に寝心地が良かった。
時折無性に彼の家に泊まりたくなる要因の一つを、しかもかなり大きな割合を、この贅沢な寝具が占めていると言っても過言ではない。

そんなことカールに言ったら拗ねちゃうかも―――と、ぼやぼや考えながら、日差しの角度を見てもう少しだけ眠れそうだと判断したティナは、もぞもぞと横向きになった。

のだけれど。

「―――っ!?」


色素の薄いふわふわの髪。
何より気にしている童顔。
白い頬には、女の子みたいなぱっちりした瞳を縁取る睫が影を落として。


実に安らかな顔で、カールがすやすやと寝入っていた。


えっ、えっ、と混乱に喘ぐティナが、それでも叫ばずにいられたのは奇跡のようなものだ。
クエスチョンマークとエクスクラメーションマークが、交互に彼女の頭に浮かび上がる。先程まで惚けていた意識は、今や、すっかり覚醒してしまった。

「…え、えと…?」

ぐるぐると乱れる思考から、何とか昨夜の記憶を引っ張り出そうとするティナ。
遅くまで話をして、そろそろ寝ようかと別々の部屋に、そう、確かに青年とは別の部屋に入り、相変わらず寝心地の良さそうなベッドに興奮しながらもぐりこんだ。そこまでは思い出せた。
それから、それから―――少しずつ記憶を拾い上げていた少女は、ハッと目を見開く。

夜中に、一度だけ、トイレに立った気がする。
寝惚けまなこで戻ったティナが開けたドアは、果たして本当に客間のものだったか。

その辺りをしっかりと覚えていない時点で、非があるのはティナの方だと高確率で言える。
カールの家に泊まるのは初めてではないということが、今回の事態を招いた可能性は大きい。つい今までの習慣で、ティナは元客間であった彼の部屋に入り、彼のベッドで眠ってしまったのだろう。

結論付けて、ティナは小さくぽんと手を打った。

「…あー、びっくりした」

我ながら中々理路整然とした道筋で把握出来たものだ、そんなことを思いながら悦に浸る彼女には、今の状況がハプニングであることは理解出来ても、凄まじく誤解を招くものであることまで思考が及んでいない。
寧ろ事態を把握することで余裕すら生まれ、ベッドを抜け出すでもなく、あろうことか青年の寝顔をまじまじと観察し始めた。

「…」

まつげながいなあ。
かみ、きれいないろだな。やわらかそう。

とりとめもなく感想を浮かべながら、ティナの手は無意識にカールへと伸びる。
額にかかった亜麻色の髪の毛をそっとはらい、指先で梳いていると、感触がくすぐったかったのか青年は微かに眉を寄せた。
けれどすぐに穏やかな顔で寝息を立て始めた彼に、思わず口元が綻ぶティナ。

ほんと、こどもみたい。

面と向かって口にすれば確実に怒るであろうそんなことを思って、くすりと笑う。
そのまま、何ともなしに撫で続けていたティナの手が、不意に力強い温もりに阻まれた。

「…あ、起きた?」

正確には起こしたとも言えるのだが、とにかくティナは、彼女の手をしっかりと掴んで留めたカールに声をかける。しかし、閉じられた瞼が持ち上がる気配はない。話しかけた際、睫が少しだけ震えたけれど、それだけだ。

「なーんだ」

残念そうに息を吐く。
彼が起きればまたお喋りが出来たのに。

まあいいやと思い直して掌の拘束を解きにかかった。しかし、眠っているにしては強い力で握り込まれ、ティナは結局自らの手を取り戻すことが出来なかった。
相手が寝ているからと、遠慮していたのがいけないのだろう。次はそれなりに力んで思い切り腕を引いた。外れない。
今度はティナが眉間に皺を寄せる番だった。
傍目にそれほど強く握られているように見えないのに、カールの手は頑丈な縄のように動かない。どうしたものかと考え始めた彼女の視線は、しっかりと捕らえられた己の掌に向けられている。

そして、そのブラウンの大きな瞳が、意外に節くれた青年の指を映した時。
少女の心臓はドクンと鳴った。

「っ」

なに、いまの。

奇妙な感覚にティナの中の何かが叫んでいる。それ以上気付いてはいけないと。
けれど忠告を無視してカールの掌に視線を滑らせた。

ごつごつとした感触が見て取れる。白い肌に、浮いた血管の青さが目も眩むようなコントラストだ。骨ばった指に絡め取られた、少しだけ覗き見える己の指先は、驚くほど華奢だった。

そしてティナは、唐突に気が付いた。―――男の人、なんだ。

ドッドッという心臓の音が、布団を通して彼に伝わっていないかが心配だ。こんなに激しい音が聞こえれば、カールはきっと目を覚ましてしまう。
自らの胸倉を掴み、ぎゅうっと押さえつける。そんなこと、しても無駄だなんて判っているけれど。

今、目覚めないでほしかった。

「……ん…」

ティナの切実な願いを嗤うような、絶妙なタイミングで、カールの瞼がピクリと動く。
ふわふわの髪より少しだけ濃い色合いの瞳が、ゆっくりと姿を現していった。とろんとした気だるげな顔が、扇情的に見えてしまうのも、全て見間違いなのだと彼女は自らの意識に言い聞かせる。

「お、おはよ」
「…」

寝起きが良くないと、聞いたのは本人の口からだったか。ぎこちなく上擦った声で挨拶をしても反応はなく、カールはぼんやりとティナの顔を見ている。

「…カール?」
「…」
「…あ。の」
「…」
「……カー、ル…」

暫くの間。
じっと。
ただ無言で。
穴が開きそうな程見つめられて、いよいよ困ったティナが勘弁してくれとばかりに彼の名を呼んだその時。

カールはふっと、優しげに目を細めた。
それから、握ったままの少女の掌に、ん、と唇を落として。

「―――おはよう」


こんなに爆発的な威力を持つ挨拶を、少女は他に知らない。



「わああああああああ!!」

ぴしりと瞬間冷凍よろしく全ての機能を停止していたティナは、我に返った瞬間声を張り上げながらベッドから転げ落ち、慌てふためいた様で客間へと逃走する。
鼓膜を破らんばかりの絶叫に今度こそはっきりと覚醒して、立て篭もるティナに必死の弁解を繰り返していたカールの姿が、店を訪れた人々の口から広まり町中の噂になるのだが―――それはまた別の話。



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