雨しとしと。
しとしとと、雨。

初夏の空はぐずぐずとべそをかく。


::: chuva :::


ぎぃ、がこん。
ぎぃ、ばたん。

錆付いた郵便ポストを開いて、閉じて。鉄臭い赤いそれが空っぽであることは、もはや判っていることなのに、三十分とあけずクレアは同じ動作を繰り返す。
春夏秋冬。
けれどクレアにこの良くない手癖が染み付いたのは奴が彼女を町に置き去りにしてからだ。だから、正しく表すと秋冬春夏となるんだろう。秋から、冬も、春も、夏の始まりだってクレアはずっとずっとただ一人からの連絡を待っている。

もうオレ、この町には来ないよ。

たった一言。それだけでこの町を―――クレアを、切り捨てた男からの手紙を。


「壊れるぞ」

先程の『確認』から二十分も経っただろうか。またポストへと伸ばされたクレアの細い腕。つまみにかけられた白い指先を、ついに見ていられなくて、俺は低く言った。
クレアは瞠目して、それから、静かに両の口角を上げる。

「ポストが?私が?」
「…」

問いには何も答えられない。答えられないし、笑えもしない冗談だ。
ポストが壊れると言ったって、構いやしないわと言い放つに決まっている。しかしもしも、お前が、と言ったとしたら目の前の女はどういう反応を示すのだろうか。生憎それを試す度胸を俺は持ち合わせていないけれど。

「怖い顔しないでよ」
「クレアがふざけたことを言うからだろ」
「そのふざけたことを言う女のところに、朝一番に来たのは誰?」

また言葉に詰まる。今度のそれは言いたいことは沢山あるのに、結局どれも言葉にならなかった結果だった。
心配だから。怖かったから。顔を見たかったから。
どれも不正解ではないけれど、本質に触れる解としては不十分で。良くない癖だと、判っていながら俺は帽子のつばをぐいと引き下げた。
それを見たクレアがフ、と笑う。

「言い過ぎたわ。ごめんね」

このひとは、いつだってこうだ。
突き放しながら俺の存在を拒絶しないから。傍にいることを許すから。
クレアを切り捨てられない俺はもうずっと片思いだ。


出会った頃のクレアは正義感と負けん気が強くて、口がきつくて、けれど本当は優しくて、何より感情表現が豊かな、キレイな女の子だった。怒鳴りあいの喧嘩なんて茶飯事で、俺が鍛冶屋の修行をやめると零した時には泣きながら、頑張らないグレイは嫌いだと言い切った。
しかし今の彼女は、微かに変わった。
体中から放たれていた瑞々しい生のエネルギーは、どこかうっそりとしたものに変化して、クレアの身に纏わりついている。大きく口を開けて快活だった笑顔は、伏せられた目と口の端に少しだけのせられた微笑に取って代わった。人々は色香だと言うけれど、俺には到底そう思えなかった。

それは絶望と不信の塊だ。

奴がクレアを置き去りにして一年経った今も、密やかに彼女を蝕んでいる感情。大切な者に同じだけの想いを注がれなかったクレアの、むき出しになった大きな傷。
クレアは待っているのだ。奴からの手紙はきっとその傷への特効薬になると信じて。言い換えればそれだけしか、彼女は信じていない。

どうしてだろうと考える。そうすると腹立たしくなる。
どうしてクレアは他の女を連れてこの町を去った男に、そこまで盲目的になるんだ。
一年間も。愚かしく。無様に。

また、伸ばされる白魚のような指。かぱりと大きく口をあけたポストは俺を嘲笑い、黒々としたそれに丸呑みにされるような錯覚を抱く。チリリ、胸の端っこが焦げ付いた気がした。


「―――もう、いいだろ」

呟きは思いのほか大きな音を伴っていた。俺の感情も押し殺せないところまで来ていたのだと、この時初めて自覚した。
ポストに釘付けだったクレアの青い瞳が、視線が、静かに俺へとスライドする。こんな場面でもやはりそれは深く澄んでいて、とてもキレイだった。

「も、いいだろ。充分傷ついて、想って、偲んだだろ。……いい加減前見ろよ」
「…それ、誰に言ってるの」
「お前以外に誰がいるんだよ」

クレアの頬が赤く染まる。勿論羞恥から来るものなどではなくて、それを知っていながら俺は言葉を紡ぐことをやめなかった。
矢継ぎ早に。あえて彼女を怒らせるように。

「頭では判ってんだろ?カイはポプリを選んだって。…ちゃんと二人を認めろよ。お前は」
「うるっさいわね!何あんた、何いきなり。そんなこと言うためにここに来たの!?」

雲行きが怪しくなる空。
鬱々とした黒い雲が気だるげに青色を塗りつぶしていく。

「大体、前を見ろって何よ?私が後ろ向きだなんて勝手に決め付けないでよ!」
「後ろ向きだろ。毎日毎日病気かってくらいポスト見て、女々しく手紙待って…あいつの言葉しか信じない、みたな空気出して現実逃避してる人間のどこが前向きだって言」

刹那、左頬が熱くなった。数秒後にジンジンと痺れてきてようやく痛みを感じた。
俺に平手を食らわせたクレアは肩を揺らして荒い息をしている。瞳にはギラギラと燃え盛る炎のような輝きが点っていた。それが喜ばしい感情の表れではないと判っていても、しばらくぶりに見たクレアの激情に、場違いながら俺の胸は興奮を覚えた。

「知った風な口利かないで!」

バチン。小気味いい音を響かせてもう一発。他人事のようにいい当たりだと思った。きっと俺の左頬には紅葉の型が二つ、キレイに浮かんでいることだろう。
勢いのまま、三発目を見舞うことを代償にクレアは右腕の自由を失って、俺は掴んだそれを引き寄せた。彼女の身体は軽くて、その腕は本当に細くて、驚きのあまり乱暴に扱いきれずに半端な気迫だけが空振りをする。

「―――んだよ…怒れるんじゃないか」

凍てた空気に呟きは思いのほか響いて、俺を睨み付けていたクレアの瞳が瞠られた。

「感情吐き出せるんじゃないか。なのに…お前らしくないことするなよ」
「…っ!ら、しくないって、何よ!」
「たかが一年、気持ち抱え込んだぐらいで限界になるんなら、最初からとっとと吐き出せ」

青い双眸からみるみる溢れ、糸が解けるようにするりと一滴、滑り落ちる雫。
久しぶりに涙するクレアを目にしたと思った。いつ以来かと考えるまでもない、一年振りの。けれどきっと、俺の知らないところでずっと、クレアは一人泣いていたのだ。

「や…どうして、こんな時に」

まるで想定外だとでも言うように左手の甲でぐいと、乱暴に目元を拭ってクレアは身を捩る。俯いて、金糸のような髪を乱しながら、俺に制限された右腕の自由を取り戻そうとする。けれど腹を括った今、俺に解放してやるつもりは微塵もなかった。

「離してよ!大体どうしてあんたにそんなこと言われなくちゃならないのよ!」
「…俺だから、言えるんだ」
「違う。グレイに私の気持ちは判らない!なのに…、たかが一年だなんて言わないで!」
「言えるさ!!」

思わず声を荒げる。
彼女を酷く傷つけることは避けたかった。それでも、クレアの恋慕を、たかがと言い切れるだけの時を、過ごしてきた自負が俺にはあった。

「何度だって言ってやる、お前の苦しみなんてたかが一年だ…!」

最後の味方に、土壇場で裏切られた。気持ちを押し留めるあまりくしゃくしゃになった顔で、涙に濡れた瞳で俺を睨み上げるクレアの、恐らくこれが今の心境だった。
泣かせたかったわけじゃない。本当は、こんな顔をさせるために来たんじゃなくて。

長年の想いに終止符を打ってしまいたかった。
奴を想い続けるクレアを認めたかった。

それなのに諦めの悪い俺の心は、古ぼけた郵便受けを、奴からの手紙だけを心の拠り所にしようとするクレアの生き様を垣間見た瞬間にその覚悟を放棄した。全てを否定して、見ない振りをして。時をやり過ごそうとする彼女の姿勢を見ていたらたまらなくなった。
幻想だけを偲んだ彼女の一年のために、俺の今までを消してやるなんて、ごめんだ。

「あと四年―――あいつを想えたら、さっきの言葉は撤回する」
「…どうして…、あと四年なの」
「俺が、クレアを、好きでいる年数だから」

頭上を覆った黒雲が不機嫌そうにゴロゴロと音を立てて、一筋の光。
クレアが息を呑んだ。轟く雷鳴の中でも、それだけははっきりと聞こえた。

「気付いてただろ。知ってて俺には、友達として傍にいることを望んでたんだろ?」
「…っ」

天候は悪化していく。唇を噛むクレアはもう、力任せに俺を引き離そうとはしていなかった。隠し事がばれたような表情で、逸らされた視線とは裏腹にぎゅっと、俺の服の袖を握り締めている。その手を引き剥がして自分のそれで包み込んだ。俺の片手にすっぽりと納まってしまう小さな、小さな彼女のてのひら。

「クレアが前を見据えて歩くなら、望み通りにしようと思ってたよ。だけど今のクレアみたいに立ち止まってやり過ごそうとするなら…その望みは聞けない」

ゆるゆると顔を上げたクレアは泣きそうな顔をしている。胸が痛い。
奴が居なくなってからずっと、俺にさえ感情を殺していた彼女をもどかしいと思っていたことは事実だ。けれどこんな形で、こんな表情を見たかったわけではないのに。

「…って…」

握っていた手をそっと離す。力ないそれはするりと抜け落ちた。

「だって息が…出来ないんだもの!私もこのままでいいなんて、思ってない。でも、カイのこと考えると、考えようとすると、息が出来なくなるのっ…眩暈がして、何も判らなくなって!何もかも振り切ってしまいたくなるのよ!本当はっ…こんな自分……大嫌いなのに…!」

両手で顔を覆って、肩を震わせてクレアは吐露する。刹那轟音を響かせて山に落ちた稲妻は、まるで、その悲しみに呼応しているかのようだった。
湿っぽい夏の風に吹かれながら、手を差し伸べる。
緊張のあまり乾いた喉を、唾を飲み込むことで誤魔化して、大切な人の名を呼んだ。

「クレア」

微かに面を上げた彼女の双眸が、目前に差し出された俺の無骨なてのひらを映す。

「来いよ」

途端弾かれたように俺を見るクレア。瞳には困惑がありありと浮かんでいた。
それでも俺は精一杯の笑顔を彼女に向ける。もしかしてそれは、酷く情けない表情だったかもしれないが、柔和とは言えない元の顔を出来る限り柔らかにして、笑う。

本当はすぐにでも駆け寄って抱き締めたかった。細い両の手を引き剥がして、涙に濡れた顔を自分の胸に押し付けて、大丈夫だと、傍に居ると言ってやりたかった。
けれどそれでは意味がない。
クレアが歩くために、クレアの足で俺を選んでくれなければ、何もかも無意味だ。
だから俺はぐっとこらえた。今にも動き出しそうな身体を気合で押し留めて、いまだ当惑した表情のクレアを見つめた。

「これでも俺、足は速いんだ―――だから、悪いけど俺は、お前には振り切られない」

力強く言い切ったら、花が開くようにじんわりと、クレアが目を見開くのが判った。
帽子のつばに。クレアの白く滑らかな頬に。
ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。

「ほら」

空が泣き始めた。

「来い!」


腕の中に滑り込んできた身体を受け止める。それは突進と言ったほうが正しい程の勢いと、ガラス細工のような繊細さと、真綿のような柔らかさと、押しつぶされそうな悲しみを伴って、縋りつくように必死に俺の背中に腕を回してきた。
激しく降り注ぐ雨の中、大地を割らんばかりの悲鳴が雷ではなくクレアの嗚咽だと気付いたのは、俺が強く掻き抱いた刹那にくぐもって聞こえたからだ。

空の涙に誘導されて、押し流されて、この一年の間溜めに溜めた悲哀の水を放出する。
暗雲のもたらす雫に負けじとクレアは泣いた。

「全部―――雨の、せいよ…」

言い訳めいた切れ切れな呟きが耳をくすぐる。
俺はそれに騙されることにした。


このひとの願いを叶えてくれるなら、何だっていいんだ。


だから頼む。
無能な郵便ポストを濡らして腐らせてくれ。
彼女の頬に俺の肩に、二人の頭上に降り注いでくれ。

だから頼む。
もっと、もっと。

降り注いでくれよ、雨。



BACK

20070923:加筆・修正