ただ、無。

耳から口から全ての毛穴から。
思考回路の隅々まで『空白』を押し込まれたような。

そんな、時間だった。


::: We don't say "Yes." :::


雨は何事をも憂慮で情緒的に見せる。
クレアがふと暗い思考の渦に囚われたのもまた、雨のせいかも知れない。

牧場の仕事、とりわけ作物の水遣りはとても体力と時間を要する。天の恵みたる雨はその労力を損なわせないかわり、作業に没頭するという彼女の唯一の気休めを易々と奪った。

とにもかくにもクレアは時間を持て余していた。
そして牧場のことを忠犬に任せあてどなく町をさまよううち、たどり着いたのが今居る教会だったのだ。

重い扉を押し開けて閉める。木造扉の軋む高い音が、人気のない教会内に一筋だけ音を響かせた。それから静寂。

「…カーターさん、いらっしゃらないのですか?」

いつも微笑みをたたえた神父の姿はそこにない。
クレアは彼に用事があったわけではないので、一度首をめぐらせただけでそれ以上彼の人を探すことはしなかった。
ゆったりとした足取りで、中央を縦に分断するように敷かれた赤い敷布の上を歩く。

霧雨であったためかさほど濡れた感覚はなかったが、それでも辺りを見回した刹那に肩で滑った髪は重く、ぐっしょりと水気を含んでいる。
煩わしげに、乱雑に。綺麗な金髪をかきあげて、ゆっくりとクレアが見上げたのは、壁面にあつらえられた大きな一つのクロス。


『―――汝、健やかなる時も病める時も』


重厚な声が耳の奥で響く。
カーターの声ではない。彼は聖なる文言をこんなにも硬質に、義務的には唱えないだろう。実際に聞いたことはないけれど、彼の人柄ならば、あるいは。

静謐をくゆらせるような誓言を、一組の男女が頭を垂れて受け入れている。

断片的に脳裏に蘇るぼやぼやとした映像は、輪郭の曖昧さとは裏腹に、鋭く細くクレアの心に無数の針を打ち込む。キンと耳鳴りがして、脳髄から湧き上がるような頭痛に襲われ、両耳を強く掌で押さえてその場に跪いた。

「は…っ」

額に冷や汗を浮かべながら、頭の中の映像を凝視する。

ここではない教会だ。そしてここではない町。

彼女の意識が捉えられたのは、その二つのみで。
思い出せないことを、もしくは思い出そうとしたことを咎めるように益々激しくなる頭痛は、もしかしたら内部からクレアの頭を破壊しようとしているのかも知れない。

時折こうして彼女に襲い来るフラッシュバック。

しかしながらこれほど強い痛みに襲われたのは初めてのことだ。こみ上げる吐き気と戦いながら、クレアはぼんやりと思った。神様が怒っているんだわ、と。
そして思い出すのは一人の青年の姿。
彼はぶっきらぼうに素っ気無く、けれどどこまでも率直に。クレアを好きだと言った。
それは唐突な告白だった。


ミネラルタウンに流れ着いた時からクレアの左薬指に鎮座していた鈍いシルバーリングについて、グレイが直接彼女に問うて来たことは過去に一度もない。もっとも問われたところで記憶を喪失しているクレアには何も答えられなかったろうが、それでも自分が既婚者―――時折脳裏を過ぎる映像が婚儀であることから、恋人関係ではないと推測される―――であることは認識しているつもりだった。そしてグレイもそのことを理解してくれていると思っていた。思い込んでいた。

グレイの涼やかな双眸に込められた熱。
それに、もっと早く気づくべきだったのだ。

『クレア』

せめてあの時、この一言に含まれた焦燥感だけでも察知していたら。
けれども青年に焦りを見出すには、少女はあまりに彼を信頼していたし、彼に近づきすぎていた。

『クレア』
『なあに?』

名を呼ばれ振り向く。背丈のあるグレイの面を視界に収めるには、彼を振り仰がなければならなくて、クレアは特に意識もせずそれをやってのける。そうしたら唇が降って来た。柔らかな羽でくすぐられたような口付けだった。

『……好きだ』

刹那の触れ合いのあと、もぐように唇を離したグレイはそれだけ言って足早に去った。
瞠目もできず、身震いさえなかった。


「…ぅ、ぇっ…」

不鮮明な記憶と、見上げたグレイの真摯な表情が、どちらも瞼の裏にこびりついて消えない。それらはぐるぐると渦巻いて、クレアの脳内でマーブル状に混ざり合う。

吐くものなどないのに、いつまで経っても吐き気が治まらないのは、融解していくこの記憶を吐き出せないからだろうか。


背中一面に何かを押し付けられた。同時に胸の前で何かが交差した。
それが誰かの胸板と腕であることに気付くまで五秒、解れた作業着から人物の特定をするまで更に五秒の時間を要した。
思い出したように抵抗した時には、グレイの抱擁はがっちりとクレアを拘束していた。

「お」

怒られるわ。神様がお怒りになるわ。もう自分で自分が何を口走っているのか、あるいは声に出しているのかさえも分からない。耳を塞いだままの格好でぶるぶると頭を振るクレアの左手首を、胸の前に交差した力強い右腕がゆったりと、けれど強かに引き剥がした。

あらわになった左の耳に、流し込まれる言の葉。

「怒られない。誰も怒らない。俺が全てに懺悔したから」

次には力強く身体を反転させられて、互いに座り込んだまま向かい合った。グレイの切れ長の瞳に、薄い水の膜が張っている。クレアは目を瞬いた。

「…泣いてるの?」
「たった数日でそんなやつれて…俺のせいだよな。俺が、クレアを苦しめてんだよな」

何も言えない。彼女の心を占有する鈍いマーブル模様の片方を、紛れもなく目前の青年が担っているという意味では、確かにグレイのせいと言えるかも知れない。
けれどクレアには予感があったのだ。
遅かれ早かれこんな日を迎えるという、直感にも似た、根拠のない予感が。

だから、肯定も否定もできないままグレイを見つめ返す。彼は無言の肯定と受け取ったようで、端正な顔をくしゃりと歪めて目を逸らした。けれど一瞬後には、何かを振り切った瞳でクレアを射抜き、グレイは言う。厳かに、きっぱりと。

「だけど、もう俺、クレアを我慢できないよ」

二度目の口付けは一度目のそれとは一つも重ならない。
端から目標を定めているような正確さで、青年の舌は少女の唇を割った。呆然としていたクレアは反射的に、自らの舌で口腔内の異物を押し出そうとして、触れ合った舌先からびりりと身体全体に電流が流れるのを感じた。

「っ」

身を引いたのは、ほぼ同時。反発しあう磁石のように二人の上体は距離を取り合った。
二人とも肩で息をしているのに、どうして互いの呼吸音が聞こえないのだろう。クレアは取りとめもなく考える。けれど、僅かばかり設けられた空間から、静寂が取り払われる気配がした。
左の棚から右の棚へ、物を移しかえるように、そっと。

そして聞こえた不自然な息継ぎが、つかの間の奇妙な沈黙を破る。

「ごめん」

搾り出すような、謝罪だった。
耳にした者から許し以外の言葉を全て取り去ってしまう声色。
何事かを口にしようとしたクレアは両肩を鷲掴まれ、背中を台に―――いつも神父が佇むあの教台の側面に強く押し付けられた。あまりの勢いに後頭部を軽く打ちつけ、咄嗟に前へ引いたところで、今度こそ迷いを切り捨てたグレイのキスが襲いかかる。

細い頤を固定され、角度を変えられ、青年の唇は執拗に少女の舌を追い回してくる。
息苦しくなり、無意識に彼の右腕を掴み、自らの顎を解放させようとした。しかし逆に、それを許さないグレイの手に捕らえられ、彼女の手首は教台に磔にされてしまう。
カツンと、硬いものがぶつかる音が鼓膜を揺さぶった。

薬指のリング。

「や……」

クレアは思い出したように身を捩った。今自分に起きていることを、この時初めて現実として受け止めたみたいに。

鋼のような青年の力は圧倒的で、少女の抵抗などまるで歯が立たない。
それでも再三にわたる攻防の末ようやく僅かに唇を離すことに成功し、このタイミングを逃すまいと鋭く言いつけた。

「やめて」
「やめない」

自分と同じくらい端的に、けれど明確な意思を持って、懇願を切り捨てるグレイ。
泣きそうに歪んだ表情を取り繕うこともせずクレアは言う。

「無理よ」
「どうして」
「応えられない」
「…結婚してるからってこと」
「そう」
「―――旦那の顔も覚えてないのに?」
「…っ」
「どころか存在すら記憶にないのに」
「……ひど」

噛み締めようとした唇には、しかし、グレイのそれが重なるのが先だった。

「んっ」

懇親の力で暴れているのに、清々しいほど手ごたえがない。加えて少しでも手首を動かすたび、カツ、カツと指輪がぶつかって音を立てる。それが、拘束を解けないことを咎める音色にしか聞こえなくて、ぽろぽろと涙を零した。

強引でありながら、狂おしいまでの想いがこめられた、情熱的なキス。
否が応にも抜けていく力を、引き止める手立てをクレアは知らない。

あるいは誓った人がいたなら―――彼女の心に、その記憶が少しでも残っていたなら―――青年を突っぱねる術を見出せたかも知れないのに。

グレイの右手が動き、かたく握り締められた小さな拳を押し開くと、無骨な親指と中指の先が細いリングにかかった。
抗議のような硬い音が耳障りだったのだろう。
指先に引っ掛けたリングをそのままするすると上に持ち上げていく。

脱力していたクレアは、ビクリと細い肩を震わせた。

慌てて薬指を曲げようと試みる。けれども、彼女の行動を予測していた彼の人差し指が、細い薬指の先をぐっと押さえていて動かすことも叶わない。
抵抗むなしくあっさりとリングが取り払われると同時、グレイもようやくクレアの唇を解放した。

荒い息に溶かし込むように、憎々しげにグレイは零した。

「…こんなものが、クレアを縛るのかよ」
「ッ…か、返して!」

ようやっと自由になった左手は、長いこと血流を遮られていたためじんじんと痺れを訴える。労わる余裕もなく、奪われた誓いの証を取り替えそうと躍起になってグレイのひけらかすシルバーリングに手を伸ばした。難なくかわして、グレイはクレアの瞳を覗き込む。

「―――健やかなる時も、病める時も」

瞠目した。言葉を失った。彼女の脳内でリピートされた科白、細切れにされた記憶の一端をグレイが再現したことに驚いて表情が強張った。

「もし、クレアが本当にそう誓ったんなら…なんでクレアはそいつを覚えてない?」
「…めて…」

記憶を失ったことを一番悔やみ、憂えているのは紛れもなくクレア本人である。
決して短くはない付き合いの中で、グレイはそのことを重々承知してくれていたはずだった。にも関わらず今の彼は、刃のような言葉を容赦なく紡いでは彼女の心を切り裂いていく。

「神サマとやらが、クレアに加護を与えなかったのはどうしてだ」
「……らな、…知らない…!」
「―――コレだけを理由に俺を拒むなら、今、はっきり言えよ。旦那を愛してるから無理だって」

手にしたリングをちらつかせ、グレイは言う。
グレイの言葉には良くも悪くも嘘偽りがない。それは、クレアが常日頃から彼を評価している部分でもあった。だからこそ、そんな彼が紡ぐ言葉は、他の誰から投げつけられるよりも威力を伴って、彼女の弱り切った精神を次々と打った。

「…言えるわけ…ないじゃない…!」

何と残酷な言葉を、吐かせようとするのだろう。
言えるわけがなかった。名前はおろか顔すら思い出せない人の面影を辿り、その人を愛しているからなどと。

「わた、わたしだって……好きで忘れたわけじゃないわ!」
「じゃあ、思い出したいのかよ」
「……っ」

言葉に詰まる。瞬時に肯定できなかった。

この町に来てすぐの頃は、毎日失った記憶のことばかり考えていた。暇さえあれば薬指のリングを眺めて、思い出すことすら出来ない夫に、心配をかけてごめんなさいと謝罪を繰り返した。
けれど、いつからかその、ごめんなさいの理由が変化していた。

はっと、気付かされる。目を見開いて、眼前のグレイを見た。
涙が頬を伝い、パタリと音を立てて落ちる。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
神に誓い合ったと言うのに、わたしは―――。

「…ち、かった、のよ…」

なけなしの意地を掻き集め、拾い上げて防御壁を作る。
そうでもしなければ、グレイの激しい情熱に流されて、絡め取られてしまいそうだった。
小さく震えながら唇を噛み締めて、強引な、叩きつけるような攻撃を覚悟していた。それなのに。

「……忘れたままでいろよ」

次いで落とされたのは細く、切なげな台詞。

「そして、俺を焼き付けて」

再度クレアににじり寄り、耳元に口を寄せてグレイは言う。
身を離して、瞬きも忘れて食い入るように見つめるクレアの視線を受けた彼は、ふと薄く微笑む。

「神になんて誓わなくていい。俺は、そんなあやふやなものにイエスなんて言わない」
「…グレイ…」
「―――クレアにだけ誓うから。ずっと傍にいるって」

濃く青く、澄んだ双眸がクレアを射抜く。
彼女は確かに感じていた。打ち固めたはずの壁が、音もなく崩れ去っていく気配を。
声が出ない。指一つ動かせない。全身を突き抜けるような衝撃と、葛藤が、身体の末端からじわじわと彼女を蝕んだ。
頭が割れそうに痛い。けれど、あれほど自分を苛んでいたマーブルの片方が、頭の中でどんどんと肥大していき、もう一方を塗りつぶそうとしているのが判る。

グレイは、クレアの心情を見通したように、笑みを消して真摯な表情になった。
そしてゆっくりと、手にしていたリングを口元へ持って行き、白い歯の間にカチリと挟んだまま言う。

「呑むよ、コレ。……いいの?」


クレアは弾かれたように起き上がると、立膝になり、グレイの両頬に手を伸ばした。そのまま彼の指と指輪ごと薄い唇に口付ける。噛み付かんばかりのそれを無抵抗で受け入れたグレイは身震いをして、彼女の華奢な身体を抱き締めてきた。
長く深くなるキスの間に、グレイがリングを遠くへ放っても、クレアはもうそれを目で追わなかった。



呼吸が乱れる。激しい躍動が二人の全身を突き抜ける。
狂ったように互いの名を呼んで、叫んで、受け入れあった。
それなのに、どこまでも静寂。

形あるものに愛を添えない彼らの拠り所は、互いの存在以外無い。
形ないものに愛を誓わない彼らの拠り所は、互いの存在以外無い。

二人は決して、イエスとは言わない。



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