::: ヴァレンタイン小話 :::


ごぼっ

気味の悪い音を立てて、気泡が、マグカップの底から浮き上がってきた。
それを見て、魔法使いの身体は強張った。

目の前のマグカップには、真っ黒い、どろっとした液体が入っている。
それは、可愛らしいカップには、およそ不釣合いなものだ。
おまけに、材料に何を入れたのか、つんと鼻を刺す刺激臭まで発している。
これは、明らかに飲み物ではない。

カップを覗き込んでいた魔法使いとヒカリは、思わず、そこから顔を背けた。
たまねぎを刻んだ後の様に、目が痛くなってきたのだ。
二人の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


魔法使いは、ぼんやり考える。
もしかして、これを、自分が飲むのだろうか、と。


テーブルには、自分のところ以外は、いつものように紅茶の入ったカップが置かれている。
ヒカリの分と、そして、魔女の分が。
しかし、自分の前にあるのは・・・

「ほら、そこの根暗バカ。
今日は、特別に、ホットチョコを入れてあげたんだから、ちゃんと飲みなさいよね!」

これは、とても名誉なことなんだから。

そう言う魔女は、どうやら冗談などではなく、本気でこれを飲めと言っているらしい。
魔法使いは、無性に星を見たくなって、天井を仰いだ。
いつも彼を癒してくれる星は、そこにはなかったけれど。


そもそも、なぜこんなことになってしまったのか。
ホットチョコ。その言葉に、その原因は、隠されていた。

そう、つまり、今日は、ヴァレンタイン、なのだ。

ここ数年、この町で流行っているそのイベントは、どうやら、女性が男性に、
相手への好意も添えて、チョコレートを送るらしい。
冬の感謝祭に似た、けれども、少し趣の違ったイベントなのだ。
すべて、ヒカリから、聞いたことだが。

・・・本当は、魔女の家に来る前、ヒカリに会ったとき、彼は少し期待していたのだ。
彼女から、チョコレートをもらえるのではないかと。
けれども、そんな彼の淡い期待は、「魔女さまとのお茶会、楽しみだね!」
という彼女の無邪気な一言の下に、見事に打ち砕かれ、
現在、その魔女には、チョコレートとはかけ離れた、わけの分からないものを飲めと
強要されている。

現実なんて、やはり、そんなものなのだ。
思ったとおりに、いったためしなんてない。
魔法使いは、天井を仰ぎ終わると、今度はうつむいた。

早く、家に帰りたかった。


そんな、魔法使いの様子に、魔女はいらいらと、自分のティーカップに口をつけた。
その目は、明らかに、魔法使いを非難している。なぜ、飲まないの、と。

この物体を、おかしいと思わない方が、おかしい。

魔法使いは、そう目で伝えたかったが、どうやらそれは、さすがに無理だったようだ。
魔女は、がちゃんと音を立てて、カップをソーサーに置いた。
それに、のほほんと紅茶を飲んでいたヒカリが、びくっと反応する。

「ちょっと、どうして、さっきから飲まないのよ!」
「・・・おかしいから」
「なんですって!?何が、おかしいのよ!・・・あっ、ちょっと待ちなさい!
捨てたりなんかしたら、絶交よ!ね、ヒカリ!」

最後の言葉に、ぴた、と魔法使いの動きが止まった。
そして、ゆるゆると、カップをテーブルの上にもどす。
それに、魔女は不満そうに口をとがらせたが、ヒカリはほっとしたように息をついた。

「・・・ふん。ヒカリも、ひどいと思うわよね。
コイツ、乙女の気持ちを、まったく、分かっていないのよ」

魔法使いは、すぐに、ヒカリの方を見た。
ヒカリは、魔法使いの方を、じっと見つめていた。

「私が、魔法使いさんだったら・・・きっと、一口は飲む、かな」

ヒカリは、まるで自分がチョコレートを受け取ってもらえなかったかのように、
ちょっとだけ悲しそうに、そう言った。


魔法使いは、服の下に忍ばせている水晶玉に、手を伸ばす。

本当に、彼女は、そう思っているのか?

それが、確かめたかった。
けれども、また、ゆるゆると手を下ろす。
まだ何も飲んでいないのに、口の中に、じわり、苦い味が広がるのを、魔法使いは感じたのだ。

一時とはいえ、ヒカリの言葉を疑った自分にも、
ヒカリから、何とも思われていないことが確定してしまった自分にも、
どうしようもない嫌悪を覚えた。

魔法使いは、のろのろと、自分のマグカップを手にとった。



魔女の家からの帰り、魔法使いとヒカリは、とぼとぼと迷いの森を歩いていた。
森の中は、太陽が昇っていても、暗く、じめじめとしている。
まるで、魔法使いの、今の気分を表すようだ。

「・・・魔法使いさん、その、大丈夫?」

遠慮がちにそう聞いてくるヒカリに、魔法使いは、ゆるく、自嘲的な笑みを浮かべた。
彼女の、あの一言があったから、あの、気持ち悪いものを飲んでしまったのに、
その彼女に心配されている、そのことが、なんだかとても可笑しかった。
そして、そんな彼女に心配されて、うれしい、と思ってしまっている自分のことも。

魔法使いが、弱々しく頷くのを見ると、ヒカリはうつむいた。
ヒカリが何を思っているのかを、調べる気力も、今の魔法使いにはなかった。
・・・調べても、余計に、傷つくだけのような気もした。


森の出口が見えてくる。
あふれる光に、魔法使いは目を瞬いた。

「・・・魔法使いさん」

また話しかけてきたヒカリに、魔法使いは、無理に振り向いた。
本当は、もう、今日は、誰の言うことにも、耳を貸したくなかった。
何しろ、疲れすぎていたし、傷つきすぎていたからだ。

けれども、そこにあったものに、彼は目を丸くする。


チョコレート。


透明なビニールの袋にラッピングされたそれは、まぎれもなくチョコレートだ。
それを差し出すヒカリは、いつものように、ぽやんと笑っていた。
魔法使いの心の内など、知ることもなく。

「・・・それ」

喉から、絞り出された声が、情けなく震えている。
彼女の真意を知りたくて、また、水晶玉に手を伸ばしたくなる。
けれども、それは、いろんな意味で、できなかった。

「うん、私も、魔法使いさんにこれを渡したくて。魔法使いさんのこと、大好きだから。
・・・・・・受けとってもらえると、嬉しいな」

今度は力強く、魔法使いは頷いた。
それに、彼女の笑顔が、ぱぁっと輝きを増す。


苦い味を味わったあとで、それは、とろけるように甘かった。


そっと、少女の手を取り、彼は彼女を、光あふれる外の世界へといざなった。



NOVEL



ヒカリに絶交される、と考えたら、チョコ?を捨てることを戸惑ってしまう魔法使いが、
魔女さまには失礼ながらも、素直で可愛らしいと感じてしまいました(笑)
じゃっくんさま、意外とウブで純情な魔法使いのお話、どうもありがとうございました!