『―――これから、お昼の放送を始めます』

それは物静かで控えめな彼が、少しだけ控えめではなくなる合図。教室の片隅、天井に取り付けられたスピーカーの下に陣取って、彼は静かに放送に耳を傾ける。
私が証明しよう。彼は校内放送の、一番の視聴者だ。


::: スピーカーキーパー Side片恋少女 :::


普段大人しい、イコール地味だという印象しかないであろう彼の言動を、ここまで気にかけている人間はどうやら私くらいしかいないらしい。だから時々私が彼の話を持ち出すと大抵の人が、誰それ、といった表情をする。
私は慣れた口調で答える。私と同じクラスのボアンくんだよ。

「ボアンって……あー。あの大人しい子だっけ」
「そうそう」

学校帰り、買い食い禁止という笑ってしまうような校則を勿論守る気などない私と友人は、クレープをつまみながら色々な話をする。時々メニューがアイスやたい焼きに変わるけど。

「で、そのボアンくんとやらが何って?」
「何かね、見てるとお母さんみたいな心境になるんだよね」
「は?」

クレープに刺さっていたポッキーをくわえたまま友人は眉を寄せる。

「ごめん全っ然意味判んないんだけど」
「だから、何か」
「お母さんみたいな気持ちになるのは判ったから、そこを詳しく説明してってば」
「っとねー…えっと…」

噛み砕いて説明するために、私が、そして恐らく私のみが、注意して見ているのであろう彼の日頃の行動を思い返してみる。
朝登校して、読書。合間の休み時間、読書。放課後はすぐ帰っちゃうけど、残っている時は大抵読書。だけど昼休みだけは―――スピーカー下の守護者。
はた、と、言い表す言葉を思いついた。

「これだ。『見てて判りやすい』」
「あんたの言葉は判りにくいよ」

私の話を噛み砕くことを諦めた友人は、くわえていたポッキーを音を立てて噛み砕いた。


そんなやり取りを交わした次の日も、やっぱり気が付けば彼を見ている私。
あ、先週と読んでる本が違う。そう言えば前指に絆創膏ついてたけど、今日はないな。怪我治ったのかな。
人に知られないように、さっと見るだけだが、それでも回数が多いのは自覚している。ただ、何故見てしまうのか、ということについてはあえて検討しなかった。

ぴんぽんぱんぽーん。
放送開始の音が昼休みの教室に響いた。
おんぼろスピーカーから吐き出される、喧騒にかき消されてしまいそうな弱々しい音を、意識して耳に入れている人間がこの学校に一体何人いるだろうか。ましてやそれを心待ちにしている人なんて、私は彼くらいしか知らない。
そして、本を閉じた彼が、ゆっくりと音源へ移動するのを、私は目で追った。

『これから、お昼の放送を始めます』

片隅に置かれた机と椅子は、余り物。一月ほど前に退学した生徒のものだ。スピーカーの下という絶妙な位置に追いやられたそれに腰掛けて、今日も彼はただ一人、ノイズが混じる音声の忠実な視聴者となる。

『本日のリクエストは、芸術の秋にぴったりなしんみりとした…』

一学年上の、アカリ先輩が紡ぐ可憐で涼やかな声に、じっと耳を傾けている。
そんな彼を、いつも見つめてしまう理由に、私はだから向き合わない。



「何て言うか、応援したくなるんだよね」
「…お母さんみたいな…の次はそれ?」
「透けて見えちゃうから、あーじれったいなあ!とか、いじらしいなあ!とか色々思うわけ。男ならガーンと行けよ!とかね。…でも実際は進展のない状況にほっとしてみたり」

最後に本音をぽろりと漏らす。
意味が判らない、といった表情で、でも聞いてくれた友人は、肩を竦めてアイスを一口。手袋にマフラーをしながらアイスという、一見可笑しなチョイスだが、身に沁みるような寒さの中でもおいしく感じるのがアイスの魔力であり、魅力なのだ。
私のバニラアイスを一口堪能した友人は微苦笑した。

「相変わらず話が読めないんだけどね。でも、あんたがボアンくんを好きなのは判ったわ」
「…好き、って言うかだから…放っておけないんだよ」

見ないようにしていた事実をあっさりと暴かれてたじろぐ。けど想像していたよりも動揺が少なかったのは、最初から、先輩に恋するボアンくんに恋をしていることを、心のどこかではとっくに認識していたからかも知れなかった。

「見守っていたい、って気持ちの方が大きいんだよね。例えばだけど、私がボアンくんと付き合うとか、そういうのは全然考えられないんだ。それよりは、彼女と並んで歩いてるボアンくんを見て、良かったねえ、って思う感じ?うまく言えないけど」
「…中々高レベルな恋の仕方してるわねぇ、童顔のくせに」
「童顔どうこう関係ないでしょ」
「けど…、いざ現場を見たら、そういう風にはならないと思うよ」

さくさくとしたコーンの部分を堪能していると、友人がぽつりと呟いた。
私は首を傾げる。そういう風って、どういう風だろう。

「どういう意味?」
「いざボアンくんが、極端あんたの目の前で彼女を抱きしめたりキスしようとしてたりしたら、応援なんて言ってられなくなると思う、って意味」
「ええ…そうかなあ?」
「だって、あんたの台詞は、ボアンくんの想いが叶わないこと前提に聞こえるよ?」

ぴたりと、頭より先に身体が反応して、立ち止まってしまった。
冷たい風がプリーツスカートから伸びた足を直撃する。寒いを通り越して、痛い。

「ボアンくんに好きな人がいるとかいないとか、よく知らないけど、でもそう聞こえる」

一足早く全てを胃に収めきった友人の、包み紙を丸める仕草を、ぼんやりと私は見ていた。
硬く口を閉じていた何かの蓋を、思い切り弾き飛ばされたような気分だった。


冬が訪れても、彼は相変わらず優良リスナーだ。
スピーカーから流れる話題が秋から冬のものへと変わったくらいで、彼と彼を取り巻く環境、そして彼を目で追う私というこの構図には何の変化もなかった。
先週半ばくらいから読み続けている本に、今日も彼は視線を落としている。そんなリスナーの鼓膜を、放送開始の少し音程の外れた合図が優しく振るわせた。ぴんぽんぱんぽん。これからお昼の放送を始めます。

けれどその声は若干低い気がした。勘違いだろうか。

何のかんの考えつつ、いつも彼に付き合う形で放送を聴いている私は、恐らくこの学校で二番目の優良な視聴者だ。その耳が、普段通り綺麗なアカリ先輩の声を、だけど普段のようにすんなりと受け入れなかった。
無意識に彼を見るが、傍目に変わった様子は感じられない。

『今日のリクエストは、寒い冬に心が温かくなる一曲…』

こちらの心配をよそに、アカリ先輩は淀みなく言葉を紡いでいる。
だから、私の思い過ごしだろう、心の中で完結しようとした時だった。

『…ほっ、ごほ、……失礼しました』

口を押さえているのか、くぐもってはいるが酷い咳が耳に障った。
やはり私の勘は当たっていた。先輩は風邪をひいているのだ―――認識した私の横をぴゅるりと、一陣の風が通り過ぎる。教室の扉を勢い任せに開けて、開きっぱなしのまま、突風は廊下を凄い速度で駆け抜けていった。

「…お、おい。今の誰だ?」
「うちのクラスかな?」
「あんまり早くて顔見てねぇよ…」

これには流石のクラスメイトも驚き、口々に風の正体を探ろうとする。

そんなことしなくても、いいのに。
皆が聞き流すような放送をいつも熱心に聴いていて、たった一度の放送部員の咳に、血相を変えて教室を飛び出す人間なんて、このクラスには一人しかいないのに。


『っ、アーリさん!!』
『えっ!?…ボアンく…』


そこでブツリと放送が途切れる。
刹那静まり返る教室。恐らくどの教室もそうだったに違いない。

「…さっきのって…」
「ボアンってあいつだろ!?あのいっつも本読んでる奴!」

そして刹那を通り過ぎた次には、ざわめきが狭い教室中を満たした。
地味だとか大人しいだとか、こんな行動派だとは思わなかったとか。彼を評する言葉は次々に耳に入ってくる。
だけど私の耳に一番残ったのは、彼の逼迫した声音と、紡がれた親しげな別称だった。

―――あんたの台詞は、ボアンくんの想いが叶わないこと前提に聞こえるよ?

甦る友人の言葉に、その通りだ、と今更に自覚する。まさか彼と先輩がこんなにも近い位置づけだったなんて、思いもしていなかった。
そして先程の、あの瞬間に二人の転機は訪れただろう。大小に関わらず、ささやかなきっかけとなる出来事が起きた。微動した。私の関与などこれっぽちもないままに、それは始まってしまったのだ。

彼が先輩を抱きしめたり、キスするなんて。想像だけで気が狂いそうだった。



NOVEL | NEXT

20080211:アップ