お世辞にも交通の便がいいとは言えない。偏差値だって低くない。
そんな学校に入学しようと決めたのは、ひとえにアーリさんがいたからだ。


::: スピーカーキーパー Side片恋少年 :::


言葉をしゃべり始めるのが遅かった僕は、舌足らずな口調でアーリさんをアーリ、アーリと呼んで、ずっと後ろをついて回っていたらしい。だから、今の呼び方はその名残りだ。彼女がそのままでいいと言うので、僕もそのまま呼ばせてもらっている。
他に彼女をこう呼ぶ人を知らないから、この呼び方は僕だけの特権だ。

『アーリさん、僕、アーリさんと同じ学校受けます』
『そうなの。まあボアンくんなら心配いらないよね。でもどうして?』
『…秘密です』
『何それ』

アーリさんがいるからなんて言えるわけがない。
曖昧な返答にも、アーリさんは軽やかに微笑んだ。僕の大好きな笑い方だ。

物心ついた時には、アーリさんのことが好きだった。
何かきっかけがあったのか知らない。僕の気持ちは言うなれば水が上から下に流れるように当たり前に、気が付けば彼女しか映していなくて、だから僕はアーリさんを好きであることを疑問に思ったことは一度もない。

『だったら、ルークが過去問持ってるかも知れない。聞いてみたらいいよ』
『そんなものを、ルークさんが大事にとっているでしょうか?』
『大事にしてるかは疑問だけど捨ててないと思うよ。だってあいつ片付けが下手だもん』

アーリさんと、僕。そしてルークさん。この三人の関係を、世間一般的に言い表すとしたら、幼馴染、という単語が当てはまるだろう。僕だけ一つ年下だけれど、幼い時からじゃれ合いながら、一緒に育ってきた。
だから二人が一緒の学校に進学したと聞いた時、当然僕も行こうと決めた。アーリさんに告げたのはその時が初めてだったけれど、心の中ではとうに決まっていたのだ。

『…判りました。帰ったらルークさんに聞いてみます』

事情があって僕は幼い頃からルークさんの家で育てられている。両親が離婚後、僕を引き取った母親が恋人と蒸発した。僕は施設に預けるという話になりかけていたところを、ルークさんの父親で、僕の実父の友人でもあるダイさんに引き取られたのだ。
置かれた境遇に、安直にも道を踏み外しかけたことがあった。その時に全力で僕を張り飛ばしてくれた人こそがアーリさんだった。

『あたしが持ってたら話は早かったんだけどね。多分ないなあ』
『大丈夫ですよ。ないならないで、なんとかしますし、出来ますから』
『うん。で、ボアンくんが受かったら、三人で放課後買い物とかしたいね』

空気をそっと漏らすように笑いながら言うアーリさんに、胸の奥がぎゅっと縮こまる。初めて味わうものじゃない。この感覚も、物心ついた時からずっと知っていた。

そうして、僕が合格したのと、二人が付き合いだしたのがほぼ同時期。
学校の友人にも家族にも公にはしていないようだったけれど、ルークさんが頻繁にアーリさんを迎えに行ったりしている姿は、同じ家に住んでいるのだ。嫌でも目に映った。
大好きで、そしてとても、大切な二人。だから応援したい。したいではなく、しなければならないに近い、それは義務のようにも思えるもので。

合格したら告げようと、密やかにしていた決意は、心の奥深くで燃やした。
けれど、もう根付いてしまった想いだけは燃えなかった。

それから表面上は何事もなく季節が通り過ぎて。冬の只中に、事態は大きく動いた。


慌しく階段を駆け下りるルークさん。いつも落ち着きのない彼には、さして珍しいことではなかったのに、この時僕は何故か胸騒ぎを覚えた。
ダイさんの咎める声を軽く流したルークさんに、僕は疑問を投げる。

「どうかしたんですか?」
「や…、何でもない」

明らかにそうは見えない。ルークさんは、スニーカーを突っかけるように履いて表へ飛び出していく。僕は一瞬だけ逡巡して、結局は同じ行動を取った。今動かなければ、酷く後悔する予感があった。
この予感は、3秒と経たず確信に変わる。


立ち尽くす影。僕が、その人を見間違えるわけがない。
それは紛れもなくアーリさんで、そして、彼女は泣きじゃくっていた。


「アカリ!あれほど連絡入れろって言っただろ!」
「だ、って、…こん、こんなとこ、み、見られ…たくなっ…」
「―――馬鹿ヤロ…!」

降りかかる雪に構う様子もなく、道の真ん中に立ち尽くす二人。ぎこちなくルークさんはアーリさんの肩を抱き寄せて、彼女は抗わない。僕はただ、見ているしかなくて。
銀の雪に点々と残る足跡までが、現状を切なく見せる材料になった。

足場も視界も悪いこの中を、アーリさんは一人で、どれだけ歩いていたのだろう。そして一人でどれだけ泣いていたのだろう。涙も凍るこの寒さで。
俯くアーリさんと、支えるルークさんを、弱々しい街頭が照らす。小さく聞こえたのは、ずずっと鼻をすする音だった。僕は驚愕する。

こんな風に、押し殺して泣くことを、彼女はいつの間に知ったんだ?

「…髪なんか。もう、凍ってるじゃないか」
「とちゅ、で、…雨、降った…から」

まるで恋を失った女性のようにアーリさんは涙する。
でも、可笑しい。どうして。待ってくれ。

だって、アーリさんは、ルークさんと付き合っているんじゃないのか。

「とにかく。アカリ、いったんオレん家来い」
「やだ!帰る!」
「帰るったって、お前家に一人だろ!?」
「嫌ぁ!嫌だぁ…帰る…っ!」
「……判った」

どんどん進行する二人に、けれど僕は立ち入りも、追いつきも出来なかった。仲のよい、三人組だった筈なのに。僕の知らない事情の真ん中を、二人は二人だけで闊歩していた。

「その代わり、送ってく」
「…いら、ない」
「駄目だ。オレはこれ以上譲歩しない」

厳しく言い切ったルークさんは、アーリさんの頭と肩に積もった雪を払うと、着ていたジャケットを脱いで華奢な彼女を包むように着せた。皮製のそれに、零れ出たアーリさんの涙が落ちて、ぱたり、ぱたりと音をたてる。
こちらを見たルークさんが、静かな目配せを寄越してきた。

「ボアン。オヤジに遅くなるって言っといて」
「でも、あの。…僕も」
「大丈夫だって!だから、そんな心配そうな顔すんな!」

にかっと効果音のつきそうな笑み。心配を拭おうとするルークさんはどこまでも優しい。
けれど。僕は頭の中でルークさんの言葉を打ち消す。けれど、違うんです。

心配なだけじゃない。悔しくて、あなたに嫉妬しているんです。

勝手すぎる感情だ。掌に爪が食い込むまで拳を握って、ようやっと押し留めた。
こんな時にまでこんな邪なことしか考えられない自分が、アーリさんにどんな顔を向けられるだろう。嗚咽は耳に届くのに、僕はもう、彼女の顔を見つめることが出来なかった。

「じゃ、頼むな」

ふらつくアーリさんの肩を支えて、ゆっくりと歩いていくルークさん。

渡したくない。誰にも触れさせたくなんかない。
なのに、思いと裏腹に、僕の足はそこからぴくりとも動かなかった。

翌日、アーリさんを迎えに行くというルークさんに、今度こそ強引に僕もついていった。
昨晩あれだけ無理をしたのだ。家から出てきた彼女は鼻声で、頬も赤かった。恐らく熱もあるのだろう。ルークさんが、今日は休めと言う。それでもアーリさんは首を縦に振らない。一人でいたくない、小さくそう零されては、流石の僕たちも退くしかなくて。

「無理はしないでくださいね」

僕の言葉は、懇願に近かったと思う。言ったところでアーリさんは無理をするだろう。判ってはいても、言わずにいられなかった。


物心ついた時には、既に、アーリさんが好きだった。
今だって―――好きだ。


「っ、アーリさん!!」
「えっ!?…ボアンくん!?」


だから僕はやはり、彼女の元に駆け付けたことを、疑問になんて思わない。


突然の闖入者に、控えていた教員が僕の肩を押し留める。それを振り払って放送室の扉を開ければ、朝より赤みの増した顔で、辛そうに、けれど凛とした姿勢でマイクに向き合っているアーリさんの姿があった。
潤んだ瞳は、熱が高い証拠。幼馴染、なんだ。ずっと見てきた。それくらい判る。

「どうしたの!今放送中…」
「無理はしないでくださいって言ったじゃないですか」
「え。…きゃあっ」

抱え上げる。本当は横抱きにしたかったけれど、スカートのアーリさんを思うと出来ない。
細い細いと思っていたアーリさんは、本当に細くて、飛んでいってしまうんじゃないかと心配になるくらい軽かった。左腕で抱き上げ、右腕で腰を支えている今の体勢に、彼女は必然、僕の肩に手を置いてバランスを取らなければいけなくなった。
呆気に取られて事態を傍観している周囲の人たちに、僕は首だけで会釈をする。

「体調不良なので、保健室に連れて行きます」

返事を待たず、踵を返した。
扉を閉める瞬間、「お、お大事に…」という言葉が小さく聞こえた。



「ボアンくん、降ろして。…歩けるから」
「…」
「…降ろして、ってば。ボアン。聞こえてるでしょう」
「…聞こえてます」

アーリさんが僕を呼び捨てにする時は、怒る一歩手前の状態。
だから僕は仕方なく言葉を返した。彼女は滅多に怒らない。その分、一度怒らせると許してもらうまでに酷く時間と手間がかかるのだ。
アーリさんを怒らせたくはない。けれど、素直に降ろしたくもなかった。
彼女を抱えたまま、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下に立ち尽くす。傍から見たら不可思議でしかない光景だ。

どうしよう。どうしたらいいだろう。
頭の中ぐるぐると思案していると、頭上からアーリさんの困ったような、呆れたような、それでもどこか優しさの含まれた吐息が一つ降ってきて。

「―――ずるいです」

気付けば僕は零していた。

「何が?」
「僕だって二人が好きだし、すごく大切なんです。なのに最近の二人は…二人だけで何でも完結してしまって、ずるいです」
「、ボアンくん…」
「僕はもう、必要ありませんか?」

通りすがる生徒が、僕たちをチラチラと見ては去って行く。昼休みと言う時間帯を考えれば、それも仕方のないことで。それでも僕は、場所を変えてまで再度切り出す勇気はもうなかったから、微動すらせずにひたすらに、アーリさんの言葉をじっと待った。


「付き合ってた人が、いたの」


アーリさんを仰ごうとして、小さな掌に留められた。僕の頭をそっと押さえて、向かせないようにした腕の袖口から、ふわりといい香りが漂ってくる。清潔な洗剤の香り。

「でもあまり、褒められた恋愛じゃなかった。…ボアンくんが、ルークとあたしが付き合ってるって勘違いしてるのは気付いてたよ。でもね、ごめんね。だから言えなかった」
「…ルークさんは、知っていたんですか」
「直接言ったことはないかな。だけどほら…ルークって妙に勘のいいとこあるから」

だから僕を、もしかしたら周囲をも、誤解させたままにしていたと言うのだろうか。

だとしたら、ルークさんは優しすぎる。到底敵わないじゃないか。
あの人がアーリさんを見つめる眼差しの、深遠に潜んだ感情に、気付かないでいられたらよかったのに。

アーリさんをこうやって抱き上げていいのは―――僕じゃない。


「アカリー!お前放送…っておわっボアン!」
「ルーク!」

上級生のいる棟から来る人影はルークさんだ。見る間に僕たちの元へ走り寄り、何度も目を瞬かせるその人。僕は微笑んで、ゆっくりとアーリさんを降ろした。

「保健室に連れて行こうと思っていたんですけど。代わってもらってもいいですか」
「そりゃ構わないけど。別にここまで来て交代しなくても…いやでも…」
「お願いします。僕、まだ昼食も食べてないので」

やはり熱が高いのか、足元の覚束ないアーリさんを、当然のように支えるルークさん。
断ち切るように、背を向けた。断ち切れたかどうかは、まだ判らなかった。

「辛そうだな。もたれとけよ」
「ん…ありがと」

胸は痛む。けれど悪い痛みでは、決してないと思えた。



お世辞にも交通の便がいいとは言えない。偏差値だって低くない。
そんな学校に入学しようと決めたのは、ひとえにアーリさんがいたからだ。
同じ学校で、彼女が学んだ内容と同じ授業を受けて学びたかった。

何より彼女が意欲的に取り組んでいる校内放送の、絶対の視聴者でいたかったから。

ぴんぽんぱんぽーん。今日も間の外れた合図が流れる。
そうしたら後には、焦がれる彼女の声が、楽しい昼休みの到来を優しく告げる。


『―――これから、お昼の放送を始めます』



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20080211:アップ