昼休みが始まることを告げるチャイムが、余韻を残して鳴り終わる頃には、既にチハヤは調理室の扉の前に立っていた。


::: 君の声で言ってよ 01 :::


密かに所持している調理室の鍵を、ポケットから取り出す。
品のよいクリーム色のブレザーは、青年の整った顔をことさら上品に見せていたが、紫色の瞳には感情らしい感情が灯っていない。

チハヤは淀みの無い動作でブレザーを脱いで机に放ると、ぺたんこの学生鞄から、先程上着を放り投げた時とは打って変わり大切そうにあるものを取り出して身に着けた。

それは紺色のシンプルなエプロン。

腰の後ろできゅっと結び終え、白いシャツの袖を折り曲げて、しなやかな腕を肘まであらわにする。
そのまま調理器具の置いてある奥の部屋まで足を運びかけた彼は、ふとあることを思い出して、黒板の横まで歩み寄った。
目盛りが0になっている音量のつまみを、最大値である3までひねる。

『―――のリクエストは、春の始まりに相応しい…』

もうすっかり耳に馴染んだ声が、きちんとスピーカーから流れていることを確認してから、ようやっと奥の部屋へ行き包丁やボウルなどを集め始めた。

必要な器具を全て揃え、調理室へ戻ったチハヤは、昨日学校帰りに買い込んでおいた材料を調理台の上に広げる。
先程までの無気力さはどこへやら、食材を見つめる彼の瞳には、しっかりと光が灯っていた。

スピーカーからは、先程彼女がこの季節に相応しいと表現した、桜をテーマにした曲が流れている。それが、最近大流行しているものであることなど、料理にしか関心のない彼は知らないし、知っていたとしてもどうでもいいことだ。

己に加工されることを望んでいる食材を前に、チハヤは少しだけ待った。
スピーカーから、あの少女の声が聞こえることを。

薄っぺらい恋の歌が、早く終わればいい。

けれどそれが終わりに差し掛かる気配はまだなさそうで。
一度だけ嘆息したチハヤは、そっと包丁を手に取り、瑞々しいリンゴをまな板の上に置いた。その瞬間、微かに意識の端に引っかかっていたメロディなど、彼の耳には入らなくなった。



「っ、ア…アカリ!お呼び出しよ…!」
「え?」

昼休みの放送を終え、人より遅めの昼食を摂るため教室へと戻ったアカリは、いざ弁当の蓋をあけんとしていたところにクラスメイトから声をかけられた。

お腹はもうぺこぺこだ。本音を言えば一刻も早く弁当を食べたい。
けれど、呼び出しとあれば行かない訳にもいかない。

心の中で涙を流していた少女は、だから、彼女を呼んだクラスメイトの声がやや上擦っていることにも、何やらクラス中が色めきたちざわついていることにも、すぐには気付かなかった。

ふっと、未だ椅子に座ったままだったアカリの顔に、何かの影がかかった。

「―――これ、あげる」

涼やかな声が、彼女の鼓膜を打つ。
けれど顔を上げたアカリの視界には、その声の持ち主と思しき人の姿ではなく、何か箱のようなものが目一杯に映り込んだ。

「……え」
「もしかして、アップルパイ嫌い?」
「え?あっ、ううん、好きだけど」
「じゃあ、早く受け取ってよ」
「う、うん」

有無を言わせない声音に、アカリは慌てて腕を持ち上げると差し出された何か―――紛れも無く箱だった、それもケーキなどを入れるあの―――を両手で受け取る。
そしてようやく、先程からの声の正体を知ることが出来た。


オレンジのような、桃色のような、不思議だけれど綺麗な色合いをした髪の男の人。
真っ直ぐにこちらを見下ろす瞳は、深い紫色をしていて、まるで宝石のようだとアカリは思った。


「…ふうん。やっぱり、実物の方がいい声だね」

己が今置かれている状況がいまいち飲み込めないが、アップルパイを貰った上、大切にしている声も褒められたのだから礼を言わなければと口を開く。

「あ、ありがとう。…えっと…」

しかし相手の名前を知らないため、紡ぎかけた言葉はすぐに終息してしまった。
名前どころか知り合いにいたかも定かではないのだが、誰かと訊ねるタイミングを完璧に逃していて、今更とても聞けそうにない。何よりも、相手は己のことを知っているような雰囲気なので、もしかして忘れているだけなのだろうか、いやでも見覚えはないと益々困惑した。
目前の紫色の瞳は、そんな、アカリの心を飛び交う混乱や疑問をすぐに見抜いてしまったらしい。

「ああ。僕はチハヤ。チハヤでいい」
「…じゃあ、チハヤ。あの、これ、ありがとう」

手にした箱を軽く押し頂いて再び礼を言った。
チハヤは素っ気なく頷いた後、前の席の椅子を引き、当然のように腰掛けて淡々と述べる。

「あとさ、別に僕と君は前からの知り合いでも何でもないから、思い出せないとか思ってるんなら違うからね」
「う…うん」
「今、だったら何の用だって思ったでしょ」
「……うん」

何故こうも言い当てられるのだろう。
脳裏を過ぎった疑問を即座に言い当てられ、観念したアカリは正直に肯定する。けれど綺麗な顔をしたその青年は、気分を害するどころか、むしろ少しだけ楽しげに見えた。

「卒業までに、聴きたいものがあったから」
「ききたいもの…?」
「そう」

訊ね返してみても、訊きたいことではなく、聴きたいものだと言う。
目を瞬いて、首を傾げた。

「それに、卒業って」
「僕。この春」
「え!じゃ、じゃあ上級生…なんですね!?すみません、呼び捨ててしまって…!」
「…言うと思ったよ。僕がいいって言ったんだから気にしなくていいのに」
「そ、そんなわけには…」
「それよりさ。早く開けてよ、それ」

言いながらチハヤが顎でしゃくったのは、アカリが両手で恭しく持っている箱だった。
すっかり相手のペースに呑まれていると自覚しつつ、短い会話の中でも、チハヤには逆らえない雰囲気があると悟ったアカリは、その言葉に従って手元の箱を開けた。

1カットが入っているのかと思っていたら、中には8つにカットされたアップルパイがホールの形で納まっていた。こんがりといい色に焼けたパイ生地の合間から、煮詰められた黄色いリンゴが覗いている。
堂々と箱の中に鎮座するリンゴの菓子は、食べずにいられないでしょと言わんばかりにつやつやと輝きを放っていた。

「わ…!おいしそう…」
「そう、じゃなくておいしいんだよ。僕が作ったんだから」
「え、チハヤ先輩がですが!?」
「先輩はいらないから。ついでに敬語も」

遅まきながらのアカリの礼儀を、ばっさりと切り捨てるチハヤ。
うう、と一度アカリは呻いて、やはり素直に彼に従うことにした。

「えっと、ありがとう……チハヤ。味わって食べるね」
「そうしてよ」

従順なアカリの様子に、満足そうにチハヤは笑った。


―――信じらんない!笑ってるよ!?
―――やーホントだ!いいなあーアカリ…


先程から、何となく気が付いてはいたのだが、目の前の青年が何か喋り、何かするたびに、二人を遠巻きに見ているクラスメイトの、主に女子生徒の間から黄色い声が漏れてくる。
意識に留めないでいようと思ったのだが、段々と大きくなるざわめきに、とうとうアカリは堪え切れなくなった。元々、注目されるのは好きではないのだ。
ボアンとの騒ぎがあって暫く、全生徒の注目の的となり、今も尚それが尾を引いているアカリは、人に関心を持たれることに敏感になっていた。

「……」

肩を縮こまらせて箱を閉じていると、穏やかだったチハヤの顔が瞬時に険しく変化する。
伸びてきた彼の腕に手首を掴まれた瞬間、今度はアカリの耳を黄色い悲鳴が突き抜けた。

「ちょっと。何で箱閉じるのさ。味わって食べるんじゃないの」

しかし、チハヤは周囲の騒ぎなど無関心とばかりに言い募ってくる。
幼馴染のルークとボアン以外に、同年代の男性との接触経験がないアカリは、少女のような見た目に反して大きな掌に狼狽した。
彷徨う視線が、机の上に置かれたままの弁当箱を捉える。

「あ…その、お弁当もあるし、家で食べようかなって…」
「君って実は馬鹿なの?持ち帰って食べて貰うためにわざわざ下級生のクラスまで直接渡しに来るわけないでしょ。ちょっと考えれば判りそうなもんだけど」

今日初めて会った上、知り合ってまだ三十分と経っていないにも関わらず、随分な言い草だ。もう既に遅い気もするが、それでも明日からの平和な学校生活を守るべく、アカリは反論を試みた。

「でも、あの、こっちにも色々と事情が…」
「事情?何。聞かせてみなよ。くだらないことならこのパイ口に突っ込むよ」

平穏な学校生活を送りたいと言えば、アップルパイが間違いなく投下されるだろう。瞬時に察して口を噤むアカリ。
うろたえる少女を少しの間黙って見ていたチハヤは、一つ息を吐いて手を離してくれた。ほっとしたのも束の間、今度はその手が箱にかかり、再度開けると中から1カットのアップルパイを掬い取った。

何だか嫌な予感がすると、思った時には既に、それはアカリの目の前に差し出されていた。
先程、この箱を差し出してきた時のように。

クラスメイトたちの悲鳴が大きくなる。

「食べてよ……一口で、いいから」

しかしこれまで尊大とも言える態度だったチハヤのその言葉は、彼女達の悲鳴にかき消されそうなほど細々としていて。心なしか、突き付けられたパイも震えているように見えた。

「…っ」

ええい、と腹を括ったアカリは、両手を出してアップルパイを受け取った。
裏側についている紙のシートを丁寧にはがすと、チハヤの目を見て、眦を緩める。

「それじゃあ―――いただきます」


ガタンと大きな音がした。
大きく口を開け、今まさにアップルパイに噛り付こうとしていたアカリは、音を立てた人物―――突如椅子ごと後退り、背後の机に盛大にぶつかったチハヤ―――を間抜け面のまま瞠目して見つめる。白い頬に薄っすらと紅を刷いたチハヤは、少女の視線に耐え切れないようにそっぽを向いた。


「…あ…あの…?」
「……は。も…、ホント嫌になるね」

溜息と言葉を、心底煩わしげに吐き出して、片手で自らの目元を覆うチハヤ。


「こんな、馬鹿みたいな威力だなんて。想像以上で参る」


アカリにしか聞こえない程の音量で、呻くようにそう漏らした後、また深く長い息を吐いてから彼はおもむろに立ち上がった。そしてこちらを見下ろしたかと思うと、ふっと薄く笑った。

「いつまでアホ面晒してるの。僕、教室に帰るから」
「アホ面って!…それにまだあたし、一口も食べてないけど…」
「うん。でも…今日はもう充分」

意味深な台詞を残し、自らに向けられる数々の熱い視線をないもののように平然と、クラスメイトの群れを割ってチハヤは帰っていった。
あっさりと去った背中を見送った後、ぽつんと残されたアカリはとりあえず、手にしていたアップルパイを今度こそ頬張った。

「…おいしい…!」

口いっぱいに広がる、サクサクとしたパイ生地の食感。煮詰められたリンゴは歯ざわりも甘さも絶妙だ。
今までアカリが食べてきたアップルパイの中で順位をつけるなら、チハヤのアップルパイは間違いなくダントツの一位だろう。

「いいなあー!私にも一つ頂戴!」
「あ、あたしもー!……うわっ、ホント美味しいんだけど…!」
「ってかアカリすごすぎ!チハヤ先輩お手製のお菓子貰えるなんて!それも本人からだよ!?」
「え?そ、そんなに有名な人なの?」

わらわらと群がってくる女友達に箱を突付かれながら、アカリはぱちぱちと瞬きをする。
その中の一人が、信じられないとでも言いたげな顔で、鈍い彼女の反応にぶるぶると首を振った。

「それ本気で言ってんの?有名も有名よ!むしろチハヤ先輩を知らないことにびっくりだよ!」
「え、ニュースなら結構見てるんだけど…有名なパティシエか何かなの?」
「違ーう!チハヤ先輩と言えばこの学校で知らない者はいないって言われてるんだからね!?」

その知らない者に該当してしまった己は何なのだろう。

「つまり、漫画で言うならモテモテ王子様系ってわけ!」

別の女友達が至極簡潔にして判りやすく説明をしてくれた。
それを聞いて頭の中でチハヤの顔を思い浮かべてみる。なるほど、確かに異性に人気の高そうな顔立ちをしているなと暢気に考えていたアカリに、また別の友達が小さな声で忠告をしてきた。

「でもアカリ……これから気を付けた方がいいよ…?」
「…うん。そうだね…」

この言葉の理由については、言われずともアカリ自身がしっかりと判っている。
最近ようやっと、ボアンとのことを囃す生徒が沈静化してきたところだったのに、何とも皮肉なタイミングでまた噂の種を提供してしまった。暫くは忍耐の日々が続きそうだなあと、遠のく平穏の二文字を涙ながらに見送っていると、そうじゃなくて、と友人の声が割って入った。

「前のさ…あの後輩くんと同じレベルの騒ぎで考えてるんなら、アカリ、ちょっと甘いよ?」
「……え?」
「チハヤ先輩はね、お昼休みには毎日調理室に入り浸ってるほど料理が好きなのに、家庭科の授業以外で作った物を人に食べさせたことないんだって」
「あー!それあたしも思った!だからこのパイを先輩が作ったって言った時ホント驚いたし」
「しかも先輩直々にお届けにあがりました、なんて!前代未聞だよねー」

言われてみれば、クラスメイト達からの悲鳴が一際高く響いたのは、チハヤがアカリの手を掴んだ時と―――彼がアップルパイは自分が作ったのだ、と言い放った時だった気がする。

「後輩くんと違って、チハヤ先輩にはリアルにファンクラブが存在するし」
「うわっそれ半端ないねー!」
「ね?だからホント…気を付けてね…?」
「……知らないよぉ、そんなこと……」

知りたくもない現実を次々と突き付けてくる友人達の間で、アカリはぐったりと呟いた。

女の子の甘いもの好きは凄まじく、箱の中にはもう1カットしかアップルパイが残っていない。否、1カットは手付かずで残されていると言うべきか。恐らく彼女の友人達は、無遠慮に見えて、それでもチハヤとアカリにもきちんと気を遣ってくれたのだろう。

最後の1つとなったそれを手に取り、ゆっくりと咀嚼する。

「…やっぱり、おいしい」


きつい口調や態度とは裏腹に、彼がくれたアップルパイは、驚くほど優しい味をしていた。



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