継ぎ接ぎだらけの取り繕った愛情でも、誰かに、それは本物だと言って欲しかった。 そうすれば青年は、真っ向から、失われた大きなものについて悲しむことが出来るだろうから。 ::: 君の声で言ってよ 02 :::チハヤの母親が亡くなったのは、彼がこの学校に入学して間もない頃のことだ。彼女は酒の飲み過ぎで、身体のあちこちを痛めつけていた。だからある日の授業中、廊下に呼び出された際に、担任の口からその事実を伝えられてもチハヤはあまり驚かなかった。 「そうですか、判りました」 淡々と帰宅準備をする彼を、異様なもののように見つめていた担任の目を、今でも覚えている。 男―――どうやらそれが自分の父親で、大層な資産家だったらしいが―――に捨てられ、せしめた慰謝料で酒に溺れるという、自堕落な生活を送っていた母親。その死を悼んでくれるような物好きで酔狂な人間は、少なくともチハヤの周囲には一人もいなかった。 唯一の子であり、恐らく唯一の親族であったチハヤは、必然的に喪主となった。そして彼は、病院で物言わぬ母親と対面し、見せ掛けばかりの葬儀を執り行い、小さな骨となった母親を骨壷に納める時でさえ、一滴の涙も流さなかった。 「チハヤくん、大丈夫か」 「あの子もまだ若いのに可哀想だったわねえ」 人形のようになったチハヤにも、差し出される大人の手はいくつかあった。 けれどその掌には皆、大きく“遺産”と書いてあったのがありありと見えた。自称母親の知り合いを名乗る数人の大人が取りたかったものはチハヤの手ではなく、かつて母親が、遺伝子的には父親である資産家の男から支払わせたという、決してささやかではない額の手切れ金なのだ。 上辺は親切そうな皮を貼り付けた大人達に、当時は少年と呼んで差し支えなかった風貌のチハヤは、冷ややかな視線をくれて言った。 「どうぞお構いなく。―――大丈夫ですよ。僕は今までも、独りで生きてきたようなものですから」 刹那豹変した大人達の目は、担任のそれと全く同じだった。 (…全く、しつこいなあの人も) 母親が死んで二年と少し経ち、チハヤは三年になっていた。 ここのところ、毎日のように進路について担任から呼び出されるため、昼休みの料理に没頭する時間を削られてしまうのがチハヤには苦痛で仕方がなかった。 呼び出されると言っても、決して卒業を危ぶむ内容ではない。 むしろ、成績優秀なチハヤを何とかして有名な学校へ進学させようとする担任の思惑に塗れたもので、進路希望調査票の第一から第三までの全ての欄に“料理人”と書いて提出したチハヤは、終始生返事で担任の言葉を受け流していた。 授業を聞いている他は勉強らしい勉強をしていないのに、彼の成績は毎回上位に食い込んだ。 その要領の良さは紛れもなく両の親譲りのものだろう。血縁上の両親が出会ったのも、誰しも一度は名を聞いたことがあるような、秀才ばかりが集まる学校だった。 美貌と知性が服を着て歩いている、とは、かの男が母親を口説く時の常套句だったらしい。 深酒をして前後不覚に陥ると、父親譲りだというチハヤの紫色の瞳を愛しげに覗き込んでは呟いてきた。愛してるわ、アナタもあの時みたいに甘くアタシに囁いて、と。 目を潤ませてしなだれかかってくる母親の艶姿には、確かに年齢を感じさせない美しさがあったが、チハヤには何よりも愚かに映った。 愛に飢え、自らを見失い、実の息子にすら媚びる女の姿。 ……やめてよ、母さん。 ―――母さんなんて呼ばないで!アタシはあんたの母親じゃないわ! ヒステリックに叫ぶ母親を押し退けて、自室に閉じこもる。どんどんとドアを叩く激しい音が、カリカリと爪を立てる音に変わり、やがて泣き疲れた母親が眠ってしまうまで、チハヤは薄暗い部屋の中でじっと息を潜めていた。そんな生活が何年も続いた末の、母親の死だった。 いくら勉強が出来ても、いい学校へ進学しても、恋愛一つで人は堕落する。 だから絶対に人を好きにはならないし、恋などしない。 チハヤの幼い頃からの信条であり、事実今までそうやって生きてきたのだ。料理だけが己の相棒だと疑いもせずに。 けれどチハヤはその、唯一無二の相棒にまで、裏切られることになる。 突然、料理が出来なくなった。 包丁を握っても、色鮮やかな野菜や新鮮な魚を目にしても、全く心が躍らなかった。以前なら、材料一つ見れば様々なレシピが浮かんでいた頭が、今や全く機能しなくなっている。 (…どうして…) 茫然自失としながら、包丁を握る手にぎゅっと力を込めて、じゃがいもを二つに切り分ける。 ぱっくりと割れたじゃがいもが、真っ白なまな板の上でごろりと転がった。てらてらと光ったその断面は何故か、酔うたび彼に迫ってきた母親の唇を連想させた。 チハヤはこみ上げるものを抑えきれず、流しに駆け寄って胃の中のものを全部ぶちまけた。 「ぅぇ…っく、…けっほ……う…」 吐くものがないところまで吐いて、嘔吐の苦しさから滲んだ涙もそのままに、汚れた流しをざぶざぶと洗う。 口を濯ぎ、乱暴に顔を洗って、再度まな板へと向き直った。 (……くそっ…!) 気持ちが悪い。色とりどりの食材も、お行儀よくそこにある調理器具も、まな板の上のいびつな形をしたじゃがいもも。全てが。 結局再び流しに頭を突っ込んで胃液を吐くはめになり、よろよろとした足取りで後退すると、ぶつかった壁に寄りかかりその場に座り込んだ。 長い足を折り曲げて膝を抱え、膝頭の間に顔を埋める。チハヤはこれまでにない程―――母親が亡くなった時よりずっと―――狼狽していた。 (なんで、どうして……僕には料理しかないのに) 己の中にあった、料理への絶対的な自信と信頼が、土台からガラガラと崩れていく。全てを失ったような深い恐怖心に耐え切れず、益々強く膝を抱え込む。 (料理だけ、なのに) 絶望から生まれる激しい眩暈を、強く目を瞑ることでやり過ごそうとする。大したことじゃない、大したことじゃないんだと繰り返し自分に言い聞かせた。 何かを受け流すのは得意分野のはずだ。 少しだけ冷静さを取り戻したチハヤは、とにもかくにも原因を探ろうと、頭の隅々までを使って思考した。膨大な情報が洪水のように思考回路を流れていく。その渦の中から彼が拾い上げたのは、少し前にアルバイト先の女店主から放たれた言葉だった。 一字一句違わず覚えているそれは、言われた刹那の衝撃まで思い出せるほど鮮明な記憶。 (『こんな、愛情の通じない、見かけだけの料理を食べるくらいなら、蝋燭でもかじってた方がよっぽどいいよ』……か) チハヤは二つのアルバイトを掛け持っている。一つは喫茶店、そしてもう一つがその女店主の切り盛りする小さな民宿だ。 とりわけ民宿は、女店主の料理の腕を聞きつけたチハヤの方から、渋る女店主に頼み込んで雇ってもらったという経緯もあり、彼の中ではかなりウェイトが大きい。料理のことについて、初めて教えを乞いたいと思った人物からの痛烈な一言は、彼が認識しているよりずっと深いところで傷を付けて回っていたらしかった。 何より納得出来なかったのは、その女店主が、チハヤの差し出した料理にくまなく目を走らせ、いただきますと手を合わせた直後にそう言い放ったことだ。つまりかの人は、彼の料理を一口も頬張らず、先の言葉を投げつけたと言うこと。 お前の料理など食べる必要もないと、言われたも同然だった。 そしてそのツケが今、僅かな時差を以って、とんでもない形で表れてくれたのだろう。 (でも……原因が判ったからって) どうしようもない、とチハヤは思った。 実の親にさえ愛情を与えられず、また与えずに育った人間が、どうやって見ず知らずの人間のために愛情を込められると言うのだろう。調理室の隅、長身の体躯をどこまでも縮めて蹲るその肩が、小さく震えているのは寒さのせいではなかった。 半月程が過ぎただろうか。 未だに料理は出来ず、調理器具や食材を見るだけで吐きそうになるという有様もそのままだった。だがそれでもチハヤは昼休みには毎日欠かさず調理室へ行き、アルバイトも休まず、料理というものに触れるようにしていた。 調理器具を見るだけでもアウトなのだ。アルバイトとしては到底役に立たないだろうと、首になることを覚悟して両方の店主にだけは現在の自分の症状を報告したのだが、どちらからも返ってきたのは解雇宣告ではなかった。そして驚くことに、どちらも似たような言葉をチハヤに告げた。 料理以外にも人手が欲しい仕事はごまんとあるのだから、留まる気があるならしっかり働け、と。 面映いという感覚を、チハヤは、この時初めて味わったと言っても過言ではない。 しかし、いつまでもその言葉に甘えているわけにいかないことは、彼自身がよく判っていた。元々は厨房に立つことを志願して雇われた身である。その要員が一人減ったのだから、店側として受ける影響は少なくない筈だ。まだ半月だが、もう半月とも言えるのだ。 それにこの症状がいつ改善出来るのか、誰にも全く判らない以上、そろそろ腹を括る必要がありそうだと彼は感じていた。 腹を括るとはつまり―――料理以外の道を見つけるということ。 けれど、己が料理を手放すという方向について考えると、いつも、深くて暗い絶望の塊の中に投げ入れられたような心持ちになった。 料理をすることは息をすることと同義だと言い切ってしまえるくらい、それはチハヤの人生に、身体中に、心に根ざした行為だったからだ。捨てるなど想像も出来ないし、したくない。 「……したく、ない…っのに…!」 彼の願いに反して、症状は日に日に悪くなっていくようだった。 近頃はもう、沢山の器具が仕舞われた調理室の奥の部屋に、立ち入ることさえ難しくなっている。扉を開け、勢揃いしているそれらを目に留めた瞬間萎縮してしまい、腹部の中心から何かがせりあがってくるのを感じる。 「…ぐ…っ…、…っは、」 またも流しで激しく咳き込んだチハヤは、血が出そうな程強く唇を噛み締めて床に膝を着いた。 確かに、己の家庭環境は、お世辞にもいい物だったとは言えない。 家族の団欒もなければ、笑いに満ちたやりとりもなく、チハヤは幼い頃から、酒びたりになった、弱くてか細くて頼りない母親の背中ばかりを見ていた。 チハヤが成長して年頃になると、己に父親の姿を重ねて迫ってくる母親を少なからず軽蔑もした。 醜い女になりたくないという、最後のプライドだったのだろう。堕落的な生活を送っていた母親はしかし、毎日の化粧だけは決して欠かさなかった。血を塗りたくったような赤い唇が、アイシテル、の五文字を形作って、何度も何度も鼓膜を震わせた。母親を振り払い、蝸牛のように部屋の奥深くへ引っ込んでも、扉越しに届く言葉は酷く残酷で。 (最初から気付いてたよ…それが、僕自身に向けられたものじゃないってことくらい) しかし心のどこかに、それが己自身に対してのものであればいいのにという、切実で愚かな願望があった。そんな願いを自覚するたび、のた打ち回りたい程の激しい羞恥に襲われながら、チハヤは自分に言い聞かせてきたのだ。 勘違いするな。愛情なんて、そんなもの自分には必要ない。 (愛を知らない人間は、夢さえも自由に追っちゃいけないって言うの) 人に対して愛情は求めないし、与えないと決めた。けれど、料理に傾ける情熱だけは本物だとチハヤは思っていた。 それなのに、己の心身を守るために貫き通してきた自己暗示が今、こうやって夢を阻み、彼の唯一大切なものを奪おうとしているのなら、これほど酷いことはない。 (…だったらもう、生きる意味も、生きてる資格も、僕にはないってことになるよ) それは心からの悲鳴。 『―――「いただきます」の、もう一つの意味を知っていますか?』 危なげな足取りで絶望の淵を歩いていたチハヤが、いっそその中に身を投じてしまおうかと思っていた矢先の問いだった。 ノイズ混じりのそれは、スピーカーから漏れているのだと判り、彼はぼんやりと意識を傾ける。 『教室でお昼を食べる時。外食する時。わたしは近くに座った人が食事の前にこの言葉を口にするか、実は結構耳をそばだてて聞いています。…と、これだけ聞くと変な人のようですが、どうか最後まで聞いてください』 機械に編成し直されても尚澄んだ声音が、言葉の一つ一つが、淀むことなく彼の耳から胸へと滑り落ちていく。 『「いただきます」、これはわたしたちの生活では耳に慣れた言葉ですよね。多くの方がご存知の通り、料理を作った人、それから調理された材料を育てた人、そして調理された材料そのものに感謝を伝えるための言葉です。けれど、どこの国にも、これに該当するような意味合いの言葉が存在しているわけではありません。しかし、だからと言って、それらの国々が、食べ物や食べるということに感謝の気持ちを抱いていないのかと言うと違います』 今やチハヤの意識は全て、名前も顔も知らない一人の放送部員が語る言葉に占有されていた。 中々言うことを聞かない足を叱咤して、ゆっくりと立ち上がると、音源を求め、覚束無い足取りで一歩踏み出した。 『これは私の母が、ある国を訪れた時の出来事なのですが、一軒のレストランで料理を注文した母が、食事を運んできた男性に、いきなり抱き寄せられたのだそうです。母は驚きましたが、その男性はもう片方の掌に載せていた料理を、違うテーブルの男性客のところに運ぶと、その人とも軽いハグを交わしました。気になった母が、食事を終えた後、食器を下げに来た店員にそのことについて訊ねると、次のような答えが返ってきたそうです。あれには、「心を込めて作ったよ」「心を込めて食べ、心を返すよ」の、二つの意味があるんだ、と。―――その話を聞いて、「いただきます」という言葉の本質も、同じなのではないかとわたしは感じました。「いただきます」という言葉は、先程述べた意味では、食べる人から調理した人や物への一方通行ですが……』 ようやっと、スピーカーの真下にたどり着いたチハヤは、そっと目を伏せて、次の言葉が降ってくるのを待つ。 『その裏にある、味わうことで心を返すという食べ手の心を、作り手が受け取ることで、初めて「いただきます」は成立するのではないでしょうか』 どこまでも温かみのある口調で柔らかく紡がれたそれは、泣きたくなるくらいにそっと、チハヤの琴線を撫でていった。 あの時の女店主の様子を、彼は再び脳裏でなぞってみる。 強張った顔で料理を置いたチハヤは、己の横顔をじっと見つめるかの人の視線に、本当は気が付いていた。けれど振り向けなくて、テーブルから少しだけ距離を保ったところで立ち止まると、後はもう無表情のままじっと女店主の首元辺りを見続けた。顔を見るなんて到底出来なかった。 その双眸が、チハヤの瞳を、真っ直ぐ射抜いていることを知っていたから。 そして―――美味しいという言葉と笑顔が貰えることを、本当は心の奥底で期待してしまっている、そんな己を見抜かれそうで怖かったから。 (…あの人は、愛情が込められてないとは言わなかった―――通じないって言ったんだ) 審査に向け何度も、何度も練習したあの時の料理を、女店主は否定したのではなかった。 誠心誠意心を込めて食べるという、チハヤに向き合った真っ直ぐな目配せを拒否して、相互になるはずのやり取りを断ち切ったのは彼の方だったのだ。 強く目を瞑って壁に突っ伏したチハヤは、暫しの時間を挟んで、力強く顔をあげた。何事かを決意した身のこなしには、先程までの力ない足取りとは比較も出来ない、確固たる意志が宿っていた。機敏な動きで奥の部屋へと続く扉の前に立つと、一度だけ深呼吸をして、ドアノブに手をかける。 ずらりと並ぶ調理器具を見ても、もう、吐き気を覚えることはなかった。 アカリの校内放送を聴いて数日後、チハヤは再びテストに挑戦した。 メニューは変えず、前回は口にしても貰えなかった料理をまた提出した。異なるのは、向けられる眼差しを受け止めて、一度頷き返したことだった。そして彼は無事、女店主の料理テストに合格した。 それから約一年経った現在では、彼の考案した何品かのメニューも客に提供されて、かなりの評判を呼んでいる。 あの放送以来、昼休みに調理室へ出向くと、必ずスピーカーの音量を確認するようになった。以前はむしろ煩わしささえ感じ、オフにすることもあったのに、今では必ず最大値まで上げておく。 季節の移ろいに合わせて様々なことを紡いだり、投稿された便りを読んだりする少女の、機械越しの清廉な声を聞きながら、チハヤの胸にはいつしか一つの願いが生まれていた。 それは、長い月日の中でも失われることはなく、静かに積もった。 聴きたいものがある。 あの日、失意の底にいたチハヤを、いとも容易く救い上げてしまった彼女の言葉。 ノイズの混じらない声で、料理に込めた己の心を、彼女に味わって欲しい。そして、心を返して欲しかった。 「それじゃあ―――いただきます」 いつもスピーカー越しに聞いていた声の持ち主が、チハヤを真っ直ぐに見てそう言った時。 比喩でもなければ柄でもないのだが、心臓が身体を突き破って飛び出してしまいそうな気がして、思わずチハヤはアカリと距離を取った。最も、後ろの机にぶつかったせいで思いの他大きな音を立ててしまった上、さほど距離を遠ざけることも出来なかったのだが。 「…あ…あの…?」 いきなり凄い勢いで椅子を引いた彼を、目前の少女は呆気に取られた表情で見やってきた。居た堪れなくて、彼女の視線から逃れるように己の目を隠すと、嫌になると呟く。 名を呼ばれた刹那、奇妙な熱が肌を焼き、不快感とは別の理由で全身が総毛立った。その時にチハヤは気が付くべきだったのだ。 「こんな、馬鹿みたいな威力だなんて。想像以上で参る」 全くもって訳が判らない、という気持ちを顔いっぱいで表現しているアカリを見下ろして、ふっと笑みを漏らすと、チハヤは物言いたげな少女とそのクラスメイトを残し、さっさと退室した。後ろ手に扉を閉めた途端、何かを堪えるように唇を引き結ぶと、眉間に皺を寄せて足早に調理室へ向かう。 厳しい顔で、この学校の他のどの教室より慣れ親しんだ空間に足を踏み入れ、他に誰の姿もないことを確認した。 はら、と頬を滑って落ちたのは、雨粒のようにころりとした涙。 それは尽きることなく次々とアメジスト色の瞳を滲ませて、チハヤが静かに瞬くたび、音もなく瞼に押し流されていく。 何度か瞬いて、ゆっくりと目を閉じた彼の網膜に、幼い頃の朧気な記憶が蘇った。 『お…お母さん…』 『あら、どうしたのよ?こんな時間まで起きて』 日付も変わろうかという時間、目を擦りながら母親の帰りを待っていたチハヤは、今しがた帰宅し、リビングに姿を現した美しい女性に恐々と声をかけた。その日の母親はどうやら虫の居所が良かったようで、チハヤを見下ろす口元には珍しく微笑みすら浮かんでいた。 勇気付けられるように、少し上擦った声で、口早にチハヤは言う。 『あの…今日は、テレビがお母さんの日だって、お母さんありがとうの日なんだって!だからぼくね』 『あらあ、オムレツじゃない。もしかしてチハヤが作ってくれたの?』 『…っ、うん…!』 『なら、食べなくちゃね。……でも、あまり食べると太っちゃうから一口だけね』 母親は手を合わせると、いびつなオムレツの欠片を口に運び、美味しいと言って優雅に微笑んだ。 それは奔放な母親が、気まぐれに垣間見せただけの優しさで、チハヤ自身への愛情ではなかったのかもしれない。けれど少なくとも、母親の『いただきます』と『美味しい』に、飛び上がりたくなるほど感動したあの時の己の気持ちと、小さな胸を一杯にした母親への愛は、本物だったのだと信じたい。それだけは信じようと決めた。 そうすれば、胸を突き刺すような痛みと喪失感、それから、滾々と湧き出て止まる気配のない涙の理由について、チハヤが頭を悩ませる必要はなくなるから。 それは酷く情けない姿なのに、チハヤはずっとこの時を待っていたような気がした。 涙も落ち着いてきた頃、やけにすっきりとした頭で、アカリのことを考える。 ―――『いただきます』を、君の声で言ってよ。 卒業するまでに聴くことが出来ればいいと、そのくらいの浅さで考えていた。 けれど、それだけではどうやらもう到底満足出来そうにない。 ぽかんとした顔を思い出す。今度は何を作って押しかけてやろうか。 様々なレシピを頭の中で巡らせる口元には、かつてない程に穏やかな微笑が刷かれていた。 BACK | NOVEL 20100307:アップ |