自覚したところでどうしようもないのに。 彼女の視線がどこへ向かうか、想いの先がどこであるかを、すでに知っているくせに。 それを承知で心が彼女を求めていると言うのなら。そうだとしたら僕は、究極の馬鹿だ。 穏やかな青年の挙式、その日取りが決まったと、宿の人間から教えられたのは一週間も前のことだ。以来少女は俯いたまま、絵画の中にずっと立ち尽くしている。 ::: quadro 03 :::「でネ、タオとリーナが揃って店に来たんだケド、これが初々しいったらなくて…」 どうしてこんなことになっているのだろう。 道の真ん中で喋くっているジュリを前に、僕はそう思っていた。 僕とジュリ。異質な組み合わせの立ち話が、どうして展開したのか判らない。 いつものように散歩していたら、いつもはすれ違うだけであるはずのジュリが話しかけてきたのだ。二言三言、会話して終わりだと思えば、ずっと彼は一つの話題を振ってくる。 「リーナが、これとこれどれがいいカシラ?って聞いたノ。そうしたら、タオったら、顔を真っ赤にして、どちらも似合うと思います…だなんて言うのヨ!まったくごちそうさまヨネ!」 話の内容は、最近島のどこでも話題の二人のことだった。正式に婚約したためか、やれ宿に一緒に来ただの、やれ衣装を選びに来ただの、どこへ行っても耳に入ってくる。 僕は構わない。別段二人を好きでも、嫌いなわけでもないから。けれど一人だけ、この話題に苦しんでいる人がいることを知っていた。その悲しみを洗い流すように、毎晩のように湖の畔に立ち尽くしていることも。 「いよいよ明日よネ。きっと素敵な式になるワ!」 「だといいですね」 「アラ!絶対素敵になるわヨォ!そう言えばアナタは来るノ?」 「いえ」 もとより式に参加するほどの交流があったわけではない。なので、明日は自宅で料理の研究でもするつもりだった。 「んもーアナタもアカリもつまらないわよゥ!仕事仕事って、仕事はいつでも出来るじゃなァい!結婚式は人生に一度の大イベントなのヨ!?」 「…アカリさんも、断ったんですか」 「そうなのヨー」 驚くと同時に、当然かも知れないとも感じた。だって彼女は失恋したのだ。 だが、次にジュリが発した言葉は、僕が少なからず、無意識に、心のどこかで抱いていた安堵を、容易く打ち砕くものだった。 「でもネ、だからアタシ、無理やり来るよう約束取り付けちゃったノ」 「…え」 「だってタオともリーナとも友達なのに来ないなんて人でなしヨ!そんな情の薄い人間アタシ嫌いヨ!って言ったら、アカリ困ったように笑って、行きますって言ったノ」 「な―――」 何て事をするんだ。 言いたかったけれど声にならなかった。 ただ絵の中の少女が、毎夜、悲しそうに俯いている理由が判った気がした。 「…荒療治だとは、思ってるわ」 「!っ気付いているならどうして、」 食って掛かる僕に、一塗りで真摯な表情になって、ジュリは静かに言う。 「だからこそ、よ」 「…どういう、意味ですか」 「幸せな二人の門出を見届けて欲しいの。見据えて欲しい。見逃さないで欲しいの」 「それは第三者の身勝手でご都合主義な考えだ」 「ええ、そうね。けれどそうでもしなくちゃ、もしこの先二人を憎んだり、嫌いになるようなことがあったら……きっと」 伏せられたジュリの睫。 性別も体格も違うのに、どうしてだか彼女の姿に重なってみえる。 「一番辛いのはアカリなのよ」 ―――ぱちんと、心のどこかが弾ける音がした。 そうなのかな。君は、葛藤しているのかな。ただ悲しさにくれているわけでは、なくて。 毎夜湖を眺めて、彼との思い出が詰まった場所で、痛みも、苦しみも伴うだろうに。それでもケリをつけようとしているのかな。 『ねぇ…、チハヤは知らないの?』 ああ。だとしたらなんて。 『誰かを好きになると、いつもの自分よりずっと強い気持ちが生まれてくるってこと』 君は強いんだろうと思う。 君が愛おしいんだろうと―――思う。 「ジュリ」 「なァに?」 「…あなたの家からも、湖が見えますよね」 「ええ、見えるわヨ」 「いつでもいいので一度…、いつもより少しだけ離れた位置から、窓を見てみてください。窓枠が額縁みたいな、綺麗な一枚の絵画が出来ますから」 華美な面の青年が首を傾ぐ。僕は薄らと、微かにだけれど笑った。 「僕はその絵が、大好きなんです」 瞠目するジュリの驚きの対象が、僕の台詞に対してか、微笑みに対してか、あるいはその両方なのかはジュリ本人にしか知りえないことで。 けれど僕にはどれでもいいことだった。 嘘のようにすんなりと認められたことに、不思議な心持ちがする。落ち着くべきところに落ち着けられたような、妙な安定感が、逆に可笑しく感じる。 それでも、今は俯く少女が顔を上げた時。許されるなら一番に傍に行きたいと思った。 青く澄み渡った空に、重厚な鐘の音が響く。 煮立つ料理の気泡を見つめながら、僕はそれを聴いていた。 クリームソースとスパイスの香りを湯気が運び、鼻腔をくすぐる。換気扇を、閉められた窓の隙間を抜けていく。 今、絵画の主人公は、このクリームソースよりも真っ白なドレスを身に纏った女性を、懸命に見つめているに違いない。想い続けた男の隣で微笑んでいる姿を。 いつか笑える日がくると。信じて今の悲しみと立ち向かっている。 きっとそこで過ごした大切な思い出を、取り出して、見つめなおして。整頓しなおすために、少女は毎夜湖畔へ通ったのだろう。本当は、頭痛がするくらいじっと見つめて、その姿を構図をこの目に焼き付けておきたかった。 四角い窓枠に切り取られた絵画。 僕の大切なそれの中に、もう彼女は現れない予感がしたから。 だから、驚いた。 そこにいる。 少女が一人、桟橋に佇んでいる。 暖かい、太陽みたいな色をした、オレンジのドレスを着て。 それは今までだってずっと見てきた、愛した景色のはずなのに。有り得ないものを見たような衝撃に、僕はぴくりとも動けなくて、ただ瞳だけは正直に彼女に釘付けたままだった。 背景に鐘の揺れる教会を背負って、水面がきらめく中を少女はいた。 いつかの夢と重なる光景。けれども一つだけ、大きく違うのは彼女が、凛とした佇まいをしているということ。 俯いてなどいないということ。 「…アカリッ!」 教会へと続くなだらかな坂を、正装したジュリが駆け下りてくるのが見えた。紡がれた名の持ち主は弾かれたようにそちらを向いて、次には―――湖へと飛び込んだ。 波立つ湖に。僕の大切な絵に。 大きなオレンジの花が咲く。 ジュリの高い悲鳴が窓越しでも伝わった。少女の行動はとんでもないことなのに、どうしてだか僕はそれを純粋に綺麗だと感じてしまって。駆け寄りつつ、礼服の上着を脱ぎ捨てて今にも後を追いかねないジュリの姿を見た途端、奇妙な焦りが胸を焼いた。 触れられたくなかった。あの花に。 菜箸を取り落とし僕も駆けて。 弾かれたように、叩き割る勢いで窓を開け放った。 「―――っ」 想像以上の音に花の動きが止まる。ゆらゆらと水面をたゆたう花びらが映えている。 こちらに注意を向けた少女は、滑らかな水の中央で、瞠目したままこちらを凝視していた。ジュリも足を止め、僕の動きに注目している。 だから殊更に余裕ぶって、あたかも当然のことのように、僕は彼女に言った。 「やあ。随分と遅かったじゃないか」 「…え……」 「うわあ、ずぶ濡れだね。タオル貸すから早くあがりなよ」 窓枠に肘を置いて頬杖を付く。 濡れた瞳に見えた、確かな涙の潤いを、気付かない振りすることは罪ではないだろう。 「……じゃないと、グラタン冷めるよ?」 硝子越しでない。ましてやもう絵の中の人物でもない。 アカリという少女の、リアルな輪郭と眼差しが真っ直ぐに僕を射抜く。 そうしていつか、僕はその瞳にも、美しい絵を見つけられそうな気がした。 BACK | NOVEL 20080721:アップ |