少女は俯いている。 華々しい挙式の名残が漂う教会を仰ぐ以外には、微動だにせず、古い桟橋にじっと佇んで。濡れ鏡のような水面が時折揺れるのは、彼女の涙が弾けているからかも知れない。 悲壮な想いが溢れているのに、色合いはどこまでも優しいパステル調の絵画。 絵の中の少女は俯いている。 ―――そんな夢を見た。 ::: quadro 02 :::ここ最近、心がささくれている自分を自覚している。 一番の問題は、そんな不安定な感情が周囲に察知されていたということだ。普段通りにしているつもりだったのに、接客態度がいつもよりかたいとユバ先生に注意をされた。 「あんたは、いつもの接客もあんまり心が通ってないけどねぇ。今日は一段と冷たいよ」 ごまかせているとは思っていなかった。けれど、いつも浮かべている笑顔が完璧な営業用であることを、実にあっさりと言い当てられて、さすがの僕も少し狼狽した。 しかし帰れと言われたからと素直に帰るはずもなくて、それから小一時間ほど働き続けていたら、厳しい顔をしたユバ先生にこう言い放たれてしまった。 「もういいよ。あがんな」 「…ですが」 「ですがもクソもないのさ。今のあんたの瞳には、全く温もりや感謝がこもってないよ。…そんな面した人間がいちゃ、折角の料理もまずくなるんだよ」 公私混同の、自業自得だ。判ってはいても、心のささくれは益々酷くなった。 風が草の匂いを運んでくる。 キルシュ亭をあとにした僕はカラメル湖の周辺をぶらぶらとしていた。勿論帰ろうと思えばすぐに帰れたのだけれど、家に帰っていつものように料理の本を広げ、試作に打ち込むような気分ではなかった。 古ぼけた桟橋が目に入り、最近よく見る夢を思い出した。 少し逡巡したあと、擦り切れた木目を踏みしめてみた。僕だけが知る美しい絵の中で、彼女が彼と並んで座っている場所。夢の中で彼女が、涙を落としながら佇む、場所。 二人をきらきらと輝かせる、魔法のようなところだと思っていた桟橋は、僕が乗っても些細な変化も見せなかった。ただ木製品特有のきしんだ音を微かに響かせただけ。 何を期待していたんだろう。 知っていたじゃないか。僕には決して醸し出せない温もりだってことなんて。 子供のような自分に嘲笑する。 「―――おうち、帰れないの」 背後で草を踏む音。続いてこんな言葉が耳を抜けて、振り向かずに返事をした。 「迷ってるわけじゃないよ」 「じゃ鍵をなくして入れないとか?」 「マイじゃあるまいし。そんなに間抜けじゃないさ」 こう返せば、うっと声を詰まらせるのが、顔を見なくても判った。 マイは何をしに来たんだろう。店はどうしたんだ。けれどそれに対し明確な答えがほしかったわけでもなくて、言葉にはしないまま、湖の水面を眺めながらぼんやりと考えていた。 エプロン姿の男と目が合う。何て辛気臭い顔だろうと思っていたら、彼の左肩―――実際には僕の右方向から、小さな黄色い頭がちらりと映り込むのが、見えた。 「来るな」 自分で制御する前に零れた言葉。 この島の住人に、もしかしたら初めて聞かせたかも知れない硬質な声に、マイの足は止まったようだった。濡れ鏡に侵略してくる姿がそこから動かないことが証拠だった。 「ごめん、なさい」 「…一体何をしに来たんだい?」 苛々する。原因は、マイが僕に近寄ろうとしたことじゃない。 いつも見ている絵の一部分に、僕のような人間が立ってしまっているのに。この上この場所に彼女ではない女性が足を踏み入れることに耐えられなかった。 彼らをあんなにも柔らかくくるむ、パステルが彩る桟橋に、異質物が二つも並ぶなんて。 「チハヤが…心配だから来たんだよ。それじゃ駄目なの?」 「…礼は言っておくよ。だけど、放っておいてくれるかい。きみにはどうしようもないことだ」 「放ってなんかおけないんだもん!…だって…あたしは、」 やめてくれ。 ここで何かを展開しようとしないでくれ。 「あたしはチハヤのこと、好きだから…!」 僕の家から見えるこの景色は、額縁を思わせる窓枠に切り取られていてまるで一枚の絵のようだった。淡い色で、優しいタッチで描かれた絵画。 登場人物である彼女たちのはぐくんできたもの。彼女が温め続けてきたたくさんのものが、窓越しに広がるこの桟橋には、湖には、残されている気がしていた。 けれどそれら全部を、今、僕とマイは塗り潰してしまった。 「…好きとか、嫌いとか」 初めて向き合ったマイは今にも泣きそうで、けれど絶対に涙をこぼさまいと決意したようにも見える、複雑な表情をしていた。 「そんなものは人に関わっていい理由にはならないよ」 「なる」 「ならないね」 「なるもん!」 こういう時の人間の瞳は、どうしてこんなにも真っ直ぐで、強いんだろう。 真摯な双眸を受け入れられなくて、畔に咲いている野花に視線を移す。彼らを柔らかく包んでいたそれは、間近で目にすると思ったよりもずっと確かな輪郭を結んでいて、存在感と生命力を振りまきながら風に揺れていた。 「ねぇ…、チハヤは知らないの?人を動かすのは気持ちだってこと。…誰かを好きになると、いつもの自分よりずっと強い気持ちが生まれてくるってこと」 嘘ばかり。色恋沙汰が人を強くすると言うなら、なんで彼女は泣き続けている。 けれど、一番判らないのは僕だ。 ―――なんで僕は、そんな彼女から目を離せない? 「……ずっと、見ていたい絵があるんだ」 突然の言葉に、マイは不思議そうな顔をした。けれど黙っているので話を続けることにした。 「その絵に登場する人は、決まっていて、見るたび色んな顔をしている。…優しい色合いが僕には不似合いだと、判っているのに見ずにいられなくなるんだ」 いつでも、脳裏に鮮明に思い描くことが出来る。自宅でくつろいだり、料理中や、読書をしている時でも、見やったガラス越しに彼女の姿があると釘付けになった。 見飽きることなんてない。自分しか知らない、美しいもの。 「…それって、さ。すごく単純だよ。もしかしたら、あたしなんかよりもうんと、素直」 独白だったのか、何かの解を求めていたのかは、自分でも判らない。 けれど全てを聞き終えたマイは、そよ風のようなため息を漏らして、少しだけ笑った。常日頃、子供っぽいと思っていた考えを、改めさせられそうなくらい大人びた表情だった。 「だって。その人がいる時にしか、チハヤはその絵を見ないってことじゃない」 ああ。そうだったのかと漠然と思う。 腑に落ちたと表現するまでにはしっくりとこなくて、けれど、牙を剥くには言い当てられすぎていた。 「それにしても…ついさっき告白した女の子に、そんな優しい目で他の人の話するなんて」 今度はマイが背を向けた。後ろ手に指を組んだり解いたり、手遊びしながら小さく一歩を踏み出す後姿を、僕はしっかりと瞳に映した。遠ざかっていく少女は零す。 「男の人、見る目ないなぁ、あたし」 湖を挟んだ向こう側に、僕の家が見える。 初めて誰かに、あの絵のように美しい風景を見せてもいいかも知れないと、感じた。 BACK | NOVEL | NEXT |