最近、役場に新しい顔が増えた。牧場を経営しているという女性だ。
だが彼女は一日の殆どを役場で過ごすので、僕は心の中で、それは嘘ではないかと思っている。


::: um pouco mais :::


一度そう言ったら静かな声で

「…細々と、でもちゃんと、やってる」

と返されたので、以降口にはしていないが、疑われる方にも原因があるのではないかと思う。何しろ最初にも述べた通り、本当に彼女は役場に滞在する時間が長いのだ。多い時は半日近くをここで過ごしている。
まあ、その原因は主に僕にある。なのであまり強く言えないところではあるし、もうすっかり彼女の存在に慣れてしまった自分が居るのも事実だった。
今日もアカリは、11時頃にふらりと役場へ来たかと思えば、そのままカウンターを通り抜け、職員側のスペースの端に設置されたソファで本を読み始めた。
一連の流れを見た僕は、視線を自分の机上に戻す。そして、昔のことを思い出していた。



『ここで、読んじゃ駄目ですか』
『二階の図書室の方が広いですし、静かですよ』
『いや。うん…はい。でも、ここがいい、んですけど…』
『…何故?』

慣れない笑顔で対応していた僕はしかし、出鼻から思い切りくじかれた。
一冊の本を胸に抱え、おずおずとカウンターに寄ってきたのが、数週間前にこの島に、牧場を経営するために来たという女性、アカリだった。
不慣れなので、本の貸し出しシステムに不安があるのかも知れない。そう思ってどうしたのかと声を掛けたのだが、寄越された返答とそのやりとりがこれだった。
彼女がここ、と示したのは一階の、カウンター正面に設置してある長椅子だ。
手入れのしやすさを優先しているためビニール製の革張りで、固く、そして背凭れがない。壁に沿うように置いてあるとは言え、長時間座るにはあまり快適ではないだろう。背凭れとクッション付きの二階の椅子の方が断然座り心地がいいはずである。場所も頻繁に人が出入りする入り口付近なので、集中して本を読むには不適切だと言えた。
あとはこちらの都合だが、常に職員以外の人間の姿が目に入ったら集中もしにくい。

『…判りました、無理言ってすみません。…ありがとうございます』

最後の理由は伏せて丁重に説明すると、アカリは落胆した表情を浮かべつつも礼を言い、本の貸し出し手続きを済ませて去っていった。
別に構わないじゃないですか、とエリィに言われたが無言で流した。

それから一週間が経過して、返却日になり、昼過ぎにアカリが本を返しに来た。にこやかに応対するエリィが受け取った本をカウンターに置く。何ともなしに目で追っていた僕は、本に栞が挟まれていることに気付く。だがエリィは彼女に手続きの流れを指示しているところだったので、代わりに取ってやろうとその本を手にしたのだ。そして、ページ数を見て驚いた。
12ページ。
いぶかしみつつ表紙を確認したら、児童向きのファンタジー小説だった。小難しい論文や哲学書のような代物ではない。失礼な物言いだが、大人が一週間でたったそれだけしか読み進められないのは、あまりに遅くはないか。
僕の不躾な視線に気付いていただろうにアカリは何も言わず、今度は30ページほどしかない幼児向けの絵本を、一冊借りて役場を後にした。しかし結局一週間後には、またも読み終えられなかったのであろう絵本が、彼女の気まずそうな表情と共に返ってきた。
そんなことが何度も繰り返された。

今振り返れば、最初の申し出を無下に断ったことを、僕はどこかで悪いと感じていたのだと思う。そしてその気持ちが、昼休みに入った僕の足を彼女の牧場へ向けたのだろう。

アカリは簡単に見つかった。
自宅の横に少しだけある、木々の茂った場所に一つだけ置かれた椅子。そこに腰掛けて、この間借りていった本を広げていた。確か返却予定日は、明後日だったはずだ。
集中して読んでいるなら邪魔する必要はない。僕はそのまま気付かれないように踵を返して立ち去ろうとした。けれど、一歩後退したところで、彼女はふっと顔をあげた。
繁茂した木が幸いして僕には気付かない。心細げに辺りを一瞥して、ひどく切なそうな顔で肩を落とすと、静かに閉じた本を膝の上に置くアカリ。しばらくぼうっとして、何かを振り払うように頭を振ってから、再度本を開いたが、結局は一分もしないで閉じてしまった。
これでは、一週間で読み切れなくて当然と言うものだ。
三度目の読書を彼女が試みようとした時。歩み寄ったのはほとんど無意識だった。
けれど、本を閉じる時の寂しそうな瞳を、もう見たくないと何故か無性に思った。

『―――あそこに長居されては、役場に来る人の邪魔になる』
『、…あなたは、』
『だから、静かにしているなら、…職員側のソファの一角を提供しようと思うんだが』

ぱち、ぱち、ぱち。僕を見上げて瞬いたアカリは、微かに眦を緩めて頷いた。
こんな表情が見られるなら、あの時了承していれば良かったと、不覚にも考えてしまった。



と、こんな出来事があって以降、アカリは毎日役場へやって来て読書に勤しむようになったのだが、僕は彼女について気付いたことが二つあった。
まず一つ。やはりと言うか何と言うか、彼女は読むのが遅い。毎日本を読みに役場に来るくらいだから、活字が嫌いだということはまずないだろうが、好きなら好きでその割には読み進む速度がとてつもなくゆっくりだった。それでも一週間後には、ぎりぎり読み終えて返却するのだから、以前より進歩はしていると言えるだろうが。

そしてもう一つ。
これは、僕にとっては不可解な行動で―――最近僕を悩ませている原因だ。

時折、ふと本から顔を上げるアカリは、決まってどこか心細そうにきょろりと周囲を見渡す。そしてそこに、父上とかエリィとか、まあ、僕とか、いった人の姿を見つけると、途端にそれまで不安に満ちていた瞳に安堵を滲ませて、口元に柔らかな微笑を刷くのである。
そうしたら僕は、必ずと言っていいほど、どきりとする。
最近では町で彼女を見る度に思い出して、その上、何もなくとも時々頭を過ぎるほどだ。
アカリの安心しきった微笑みを思い描くと、可愛いと、自分は一生他人に向けることはないと思っていた言葉が心に沸く。けれどいざ目の当たりにすると、ただ恥ずかしくなってしまい、彼女からぶっきら棒に顔を背けてしまうのだった。

勿論、こんなことは誰にも言えやしない。
それでも、最近の僕は確実に待っている。彼女の訪問を。微笑みを。

ふと、視界の隅でアカリが動いた。僕は抗いがたい力によってそちらを見る。不安げに瞬きながら視線を巡らせていた少女と目が合って。
ふわりと。

―――ああ。悔しいが、いい加減に認めるしかないのかも知れない。

「…!」
「…どうした」

目を瞠るアカリ。僕が問えば、ほんの少し首を傾いだ彼女が呟いた。

「や、…なんだろう。ギルが、うっすら、笑った気がしたの」
「ほう。それはそれは。貴重な幻覚を見たな」
「幻覚とか言う…、あれ、やっぱりギル、少し機嫌いい?」

憎まれ口を叩いて、どうにか抗がおうとして。でも、もう無駄だと悟る。
本当は僕以外に向けられなければいい。父上でもエリィでもなくて、真っ先にアカリが見やる対象が僕であったらいい。けれどそれは過分な欲だ。判っているから望みはしない。
ただ。せめて。


「…まあ、すっきりはしたな」


僕が早く、アカリに、アカリを安心させる微笑みを返せるようになるために。
わずか一時の微笑みを、せめてもう少しだけ浮かべたままでいてはくれないか。



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20080113:アップ