幼い頃から本が好きだった。けど幼い頃から、一人で本を読むのが苦手だった。
紡がれた文章を、一文字一文字味わうようにして本の世界にのめり込むと、ふと自分がこの世に一人きりになったような、とてつもない不安に襲われるから。そんな時に、傍に見知った人の姿があると、私はひどく安心した。

だから、私がこの島で読書を楽しめているのには、主にある少年のおかげとも言えた。
半年前から私は、ソファの守り人として、彼が勤める役場の一角に居座っている。


::: 読書マニュアル :::


「おい」

ぶっきら棒な声が落ちてくる。一心に活字を貪っていた私が、ゆっくりと顔を上げると、ギルが握りこぶしをこちらに突き出していた。何だろうと思いながら本を置いて、両手を広げる。
そこに、ころりと降ってきたのは、一粒の飴玉だった。しかもストロベリー味。
ちょっと意外なチョイスだ。
何でくれるんだろう。心の疑問を察知したのか、ギルは益々もって無愛想に言う。

「本を読み通しだと、甘いものが欲しくなると思っただけだ。深い意味はない」
「あ、うん。…ありがとう」

充分優しいと思ったけど、それを言うと多分目の前の少年はひどく怒る。と言うか、絶対的な確立で照れるだろうと簡単に予想出来たので、素直にお礼だけ言った。
ぴっと両脇を引っ張ってねじれた包み紙を広げる。甘い香りが届いた。

「あら?ギルさん、わたしにはないのかしら」
「…エリィには今朝差し上げただろう」
「あ、エリィさん。私まだ、口つけてないから、食べます?」
「いいからそれはアカリが食べろ!」

飴ぐらいでそんなに怒鳴らなくてもいいのに。
すっかり役場の人達と顔馴染みになった私だけど、職員というわけではない。ギルの言葉に甘えて、毎日ここへお邪魔しては本を読んでいるだけで、本当は部外者だ。エリィさんは朝からずっと書類と向き合ったり、訪れた人へ応対したりと働き通しなのだから、糖分を譲ったところで何の問題があるのだろう。
けどくすくすと、どこか余裕すらある微笑みを浮かべたエリィさんも、アカリさんが食べて、と言うのでありがたく頂くことにした。
もごもご、桃色の粒を口の中で転がす。香りよりも甘くておいしかった。
本を膝の上に置いたまま、ぼうっとしながら味わっていると、山積みにされた書類の陰からギルがこちらを見てきた。深い意味はないけど私は笑んだ。

「おいしいよ」
「…別に、そんなことは聞いていない」

今のはギル流の「それは良かった」なのだ。頭の中でスムーズに変換して、だから特に気分を害することもなくもう一度お礼を言う。最初の頃はこの変換作業が出来なくて、表面通りに彼の言葉を受け取っていた私はその度に傷ついたり、不快にさせただろうかと不安になったりもしたけど。
何のことはない。ギルは非常に照れ屋で、天邪鬼なのだ。

「アカリさんももうすっかり慣れたみたいね」
「自分でも、そう思います」
「何の話だ」
「何でもないわ。ね?アカリさん」
「何でも、ないですよ。ね、エリィさん」

ここは女同士、特有の結束で話を交わす。聡いギルは勿論はぐらかされたことに気が付いただろう。けど見逃してくれたのか単に疲れたのか、追求はしてこなかった。盛大に溜息が吐かれたから、恐らく後者だ。
その吐息すら笑顔でいなしてしまうエリィさんとギルを見ていると、まるで姉弟のようで微笑ましかった。彼に対してのエリィさんと私の見解は、似ていると思う。業務中の姿も見ているので、普段は年齢よりも大人びていて頭の切れる少年だと判る。だけど、こうやって不意に見せる反応は逆に年齢よりも幼くて、そこが可愛らしいのだ。

「…さっさと読まないと、返却日は今日のはずだぞ」

とりとめもないことを考えていた私に言い放つギル。
慌てて時計を見た。役場が閉まるまであと2時間ほど。残りのページ数と私が読める速度から考えて、ぎりぎりの時間だった。自慢ではないが、私は読書が好きなくせに、日頃本に触れない人と比べても圧倒的に読むペースが遅い。
栞を差し込んであるページを開く。読み始めは気が分散していて、表面だけをなぞっている感じがするけど、じっくり文字を目で追っていたら、すっとその本で繰り広げられている世界と一体化する瞬間があるのだ。
ただし人の気配がなければ、私は足踏みしてしまって物語へ入り込めない。傍に人が居ることで、安心してそこへのめり込んでいける。
そして時々大きな心細さの波に襲われるまで、ずっと本の世界の住人になっている。



勇者が伝説の剣を掲げて魔王と対峙していた。しかしそれまでずっと勇ましかった青年は突如大きな不安に襲われてそれどころではなくなる。これは私の心理だ。壮大な物語に興奮していた心臓を冷やされる感覚。まだ話に浸っていたいという気持ちは存在するのに。

「―――っ!」

結局堪えきれずにぱっと顔を上げた。

「…あれ?」

羽根ペンですらすらと何かを書き付けているギルの姿はすぐに目に映った。けどエリィさんの姿が見えない。役場で読書するようになってから、隅っこのソファに座っている私が見る景色には、ギルとエリィさんが登場するのが定番のようになっていた。
ギルが居て安心はしたものの、単にエリィさんの姿を捜し求めて周囲を見渡す。
そして気付いた。窓の外に広がる空は、もう暗く色を落としていた。
7時過ぎ。役場の閉まる時間は、とっくに過ぎている。

「…ごめん、ギル」
「何がだ」
「時間が、」
「……ああ。言われれば、確かに」
「エリィさんが、帰る時。気付かなかった?」
「…集中していたからな」

嘘だ。彼は絶対に、知ってて待っていてくれた。
さも今気付いたふうに時計を見るギルの、口にはしない優しさが嬉しかった。普段はまるで弟のようだと思う。だけど。だからこそ、こんな不意打ちの親切が胸をぎゅっとさせた。

「それはそうと。最近、ずいぶん長い時間本に向かえるようになったな」
「…うん」

読書時のおかしな焦燥感は、実はずっとコンプレックスだ。だから誰にも言っていない。
けどギルだって馬鹿じゃないから気付くだろう。詳しいことは知らないにしても。それでも、彼に触れられて、不思議と嫌な気持ちは沸いて来なかった。

「今はね、主人公が、お城に乗り込んで、魔王と対峙したとこ」
「終盤だな。かなり重要な場面だ」
「うん。もう、1ページ捲るごとにどきどきする」

名残惜しく表紙を撫でる。でも今日の冒険はおしまい。
勇者が魔王を打ち倒す佳境の部分は、また明日楽しむことにしよう。

「ところでアカリ」
「ん?」
「今日が本の返却期日だということを忘れていないか」
「あ」
「明日はここの定休日だということも忘れていないか」
「あ」

本を抱えて浮かれた気分だった私は固まった。完璧に忘れていた。
見上げるほどの身長差はないので、同じ高さにあるギルの顔を、無駄とは思いつつもじっと見つめる。私の行動を予測していたように、目前の可愛い面は可愛くない口調で言った。

「駄目だ」

にべもない。

「ま、まだ何も言ってない」
「目で判る」

可愛くない。

「業務時間中に貸し出しの延長手続きをしておくべきだったな」
「可愛くない」
「…何だと?」
「な、何でもない」

今度は口に出ていたらしく慌てて撤回する。まだ子供のあどけなさを残しながらも、多分、元の作りが良いからだろう。凄めば彼にはそれなりの気迫があった。
整った眉を寄せてこちらを睨んでいたギルが、呆れたような息を一つ吐いた。

「なあなあになっては困るからな。友人間の温情で規則を破ることはしたくない」
「…うん。判ってる。返すよ」
「しかし、生憎と業務時間は終えてしまったので、返す手続きも出来ない」
「えっ。じゃ、じゃあ、どうしろって言うの」

戸惑って呟くと、ギルの片方の口角が釣りあがった。年下とは思えない、少年らしからぬ、どこか画策的な笑みだった。挑戦的にも感じられるそれを目にして、後頭部から首筋にかけてぞわりと何か、奇妙な痺れが走り抜ける。

「僕はこれから自宅に帰って、迷惑な未返却者に督促状を書かなければならない」
「だから、ごめんって…」
「だが書いている間に、もしかしたら本を読み終えたその人が僕のところまで本を返しに来るかも知れないな。そうしたら僕も面倒な書類を書かずに済むから楽なんだが」
「…それは…、厳しい。かも」

彼らしい遠回しな是の言葉だ。すごくありがたかった。だけど大きな問題があった。そう、私は一人では本が読めないのだ。
折角の申し出を無下にすることは判っていたけど、断らざるを得なかった。この本を一人で今日中に読み終えて、返しに行くことは出来そうにないからだ。

「勿論、その人の特性は掴んでいる」

ところが何でもないように、ギルの言葉は続く。

「だから作業ついでに、家の書斎を数時間、図書室として開放しようと思うんだが」
「―――え。それって」
「…まあ、来るか来ないかはその人次第だがな」

瞠目した私に、やっぱり片側の口端だけを上げて笑うギル。彼は以前より明らかに、私に対して感情の表現が豊かになったと思う。
勿論それは、心を開いてくれている証みたいですごく嬉しい。

「…私、読むの遅いよ?」
「今更何を言っているんだ。僕が気付いていないと思うか?」
「そ、そうじゃなくて。また遅くまで、読みふけっちゃうかも」
「心配しなくても、…ちゃんと送ってやる」

その反面、今のように。びっくりするぐらい大人びた、男性的な顔を見せるので、正直どう反応したらいいか判らなくて困ることも多くなった。

「え、ええ。いいよ。何か、ギルの方が帰り道、転んだりして危なそう」
「…お前は一体どれだけ僕を子供だと思っているんだ?」

―――でもお互い、まだまだ成長途中なのだ。こんな発見はこれから幾度もあるだろう。

何年か経ったら、私たちはどうなっているのかな。
読書する私の傍らに、この人の姿はその時も在るのかな。
それともどこかで、この不思議でいて穏やかな関係も、終わりを告げているんだろうか。
ぼんやりと、考えてみる。

「それは…何か、寂しいな」

小さくごちた。先を歩いていたギルが、首だけ曲げていぶかしむような―――いや、気遣うような視線を寄越した。私はそれに何でもないと言って笑う。

「よし。待ってろ勇者」
「その言い方では勇者が悪党のように聞こえるぞ」
「違うよ。勇者は、善良な若者だよ」
「…あの勇者、実はだな」
「わわっ、続き言ったら駄目!」



本が大好きな私の落ち着ける読書方法は、少し変わっている。
一に、人気のない場所では駄目だ。
二に、一人っきりで読むのもとても苦手。
三に、これが一番人と変わっていること。物語に呑み込まれそうになって顔を上げた時、そこに誰かの姿がなければ、私は不安を濯ぐことも、再度話に戻ることも出来なくなってしまう。
少し前までの読書マニュアルはこうだった。けど最近、三の項目が変化しつつある。

誰かではなく、彼の姿を捜し求めている自分には―――まだ気付かずにいたいのだけど。



BACK | NEXT(続編「あかいろの収穫」へ)

20080113:アップ