私が思っているほど、ギルと私の関係は一言で説明出来ないと、そう知らしめられた時。
心の奥で静かに決めた。決めざるを得なかった。

だって気づいてしまったから。離れなきゃいけないんだって。

もうすぐ、ワッフルタウンに来てから二回目の春が訪れる。
雪解けの春。始まりと芽吹きの季節は、きっと私の背中を押してくれる。


::: あかいろの収穫 :::


柔らかく肩に添えられるぬくみに、全身がぼうっと温かくなる。
夢うつつをゆったりと行き来していた私は確かに、この感触を知っていた。そしてこれから優しく身体を揺り起こされることも、過去の経験が感覚的に記憶している。

「…アカリ」

起きている私では、決して聞けない声音。

「起きろ。アカリ」

ゆら、ゆらと揺すられて、ギルの優しい声も、耳に届く。なのに瞼が持ち上がらない。
寝たふりをしているわけではなかった。私は本当に朝が苦手で、普段から寝起きがよくない。耳は聞こえているのに、身体だけがすぐには私の命令を聞いてくれないのだ。

長時間の読書はかなり神経をすり減らすらしく、次の朝は特に寝覚めの悪さが顕著だったから、普段は、翌日の仕事のため早めに読書を切り上げて眠る。
だけども、いつの間にか恒例化した、毎週土曜日のイベント。ハーバル邸の書斎で読書させてもらう時は決まって、いつも以上にのめり込んでしまって。

結果として、こんな風にギルに起こされること、早数回目。

「…んー…」

ようやく私の言うことを聞き始めた身体が、ひとまずの返答をする。瞬間、ギルは揺さぶるのをやめ、手のひらがゆっくりと離れていく。

いつも、どこか寂しい気持ちが過ぎる。
けど寝ぼけた頭と身体が、その理由について深く追求することはなく。そう言った意味では、この寝起きの悪さもたまには役に立つのだった。

普段の音色に戻ったギルの声が鼓膜を揺らした。

「アカリ。今日は少し、寝過ごしたようだ。もうすぐ八時になる」
「うそ!…った!…か、からだ、いた…!」

いつも六時には起きて動物の世話をするので、今日は二時間近く彼らを待たせていることになる。慌てて覚醒した私は立ち上がり、しかしながら再びストンと椅子に座り込んだ。
机に突っ伏す形で眠ってしまっていたから、体中がギシギシする。中々辛いもので、顔をしかめながら首や肩を回す私を呆れたようにギルが見ている。
少しだけ、居たたまれなくなった。

「毎回毎回懲りないな」
「ギルだって、いっつも寝てるよ。人のこと言えない」

そう。
しっかり者のギルには非常に珍しいことだ―――と勝手に思っている―――が、書斎で二人読書をした時、先に夢の世界へ落ちるのは大抵ギルなのだった。普段忙しいので仕方がないと思い、帰る時にでも起こそうとそのまま本を読み続けているうちに、日中結構ハードな肉体労働者である私もすっかり睡魔に攫われてしまう。
だから実を言えばお互い様なのだけど、私の台詞にギルはばつが悪そうな顔をした。
その反応と年相応の表情に満足して、昨夜読んでいた本を手に今度こそ立ち上がり、ずらりと立ち並ぶ本棚にしまう。書斎で読ませてもらう本は、役場ではなくハーバル邸の物なので、返却期限を気にせず週をまたいで読むことが出来た。

そんなことがささやかな楽しみとなって、毎日の仕事の励ましになっている。

「ギルは、今日何か、用事ある?」
「特には」
「じゃあお昼過ぎに、また来ていい?」

眠っている間に、無意識に緩めていたのであろうネクタイを解いていたギルの手が止まり、不思議そうに私を見てきた。

「構わないが、何の用だ?…まだ読むつもりなら、あまり勧められないな」
「本音としては、読みたいかな。けど、違うよ」

要するに、今日は仕事を終えたらベッドで身体を休めろとギルは言いたいのだった。相変わらずの遠まわしな気遣いに、私は少しだけ笑った。それから内緒話をするように声を潜める。
実際にそれは、ギルに一番に打ち明けたいと思っていた、一つの内緒話だった。

「実はね、まだ春には、ちょっと早いんだけど。我が家の新顔が、実をつけたの」
「……苺か?」
「え!よく判ったね。本当は、出来たら一番に、クレソンさんにあげるって約束、してたんだけど。折角あげたのが、おいしくなかったら、がっかりだよね」
「それでまず僕に味見をさせたいわけだな」
「…正解。あとクレソンさん一家に、あげられるほど、数がないことと……私も、食べてみたい」

最後の言葉を付け加えると、ギルの瞳が一瞬だけとても優しい色合いになった。慣れないものについ目をそらしてしまってから、勿体無いことをしたと思ってもう一度ギルを見やる。すると彼の顔はいつものそれで、先ほどの眼差しは気のせいだったと片付けても、何もおかしくなかった。

釈然としない気持ちになる。
だけど追求するのは怖いし、きっとしない方がいいのに決まっている。

この関係をはぐくみ続けるには、それがお互いのためになるから。


ギルから是の言葉を貰って、ハーバル邸を後にした私は、豪華な門扉をくぐったところで一人の少女とばったり出くわした。お祭りなどで見かけるから、顔は知っている。けど、あまり社交的でない私には、挨拶くらいしか言葉を交わした覚えの無い人だった。

「…あなた…」
「え…?」
「今まで、この家にいたの?」

なのに突然訊ねられ瞠目する。少女は構う様子もなく立て続けに問うてきた。

「ずっと一緒に…いたの?」
「一緒って、誰と?…ギルと?」

思い当たる人物の名前を口にしたのに、深い意味なんて無かった。でもギルの名を出した途端、少女の顔が泣きそうに歪んだのには驚いた。それから彼女が何を言わんとしているのかを、唐突に悟った。私は脳内で大慌てして、あたふたと取り繕うように言葉を紡ぐ。

「や!多分あなた、誤解してる。違うよ。ギルとは、そういうのじゃないよ」
「…でも、朝まで一緒に…いたんでしょ…?」
「それは不可抗力、えっと、ギルとは読書仲間、って言うか…」
「読書、仲間?」
「お互い本が好きで、ここの、書斎で読んでるうち、二人とも眠りこけちゃって」

しどろもどろの言葉は、言い訳めいていて嫌だけど事実だった。それにもし目前の少女の気持ちが、私の想像通りなら、少女のためにもギルのためにもその誤解を解く必要があると思った。

「ほんと…?本当に、それだけ?」

大きく頷く私に、少女がくりくりとした瞳を、今は潤んだそれを瞬いた。
今更のように、とても可愛い女の子だと気付く。

「…ごめんなさい。あまり話したこともないのに、突然…」
「え。ううん、全然」
「見苦しいところ見せて、本当にごめんね」

白魚のような指で目元の涙を拭った少女が、にっこりと微笑みかけ、そう言い残して去っていく。
華奢な後姿が見えなくなるまでその場で見送って―――立ちすくんでいた私は、視界から少女の姿が消えた刹那、かくっと膝の力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。

少女とのやりとりは重かった。
全てがどこまでも重く私に圧し掛かった。


あの子は、ギルのことが好き、なんだ。


確かにギルは端正な顔立ちと、育ちのよさが窺える立ち居振る舞いをしているから、異性受けのいいタイプなのだろうとは思っていた。一見すると冷たい口調も、対象者のことを本当に考えているからこそ出てくる、一番合理的で親身なアドバイスであることが多い。

私にだって、そうだ。
やれあれをしろこれをするなと、うるさいことこの上ないけど、ギルが私のマイナスになるようなことを口にした過去は一度もない。そして彼は、いつも絶対に、言葉にはせずに優しかった。

長年気にしていたコンプレックスを、何のてらいもなくギルは受け入れて、心地よい場所まで提供してくれた。言葉には出来ないくらい嬉しくて。

―――惹かれるのも、当然だった。

好きなんだ、好きだったんだ、私も。

突然叩きつけられたこれこそ、本当に向き合うべき、生々しくて逃れようの無い現実だということ。
これ以上目をそむけてはいられないということ。
いつまでもこのままでなんて、叶うはずもないということ。

「…くるし…」

胸を押しつぶすのは、そんな、長い葛藤を全て包括したリアルな重みだった。



足の裏が、地面に張り付くようだ。出てきた時とは反対のべったりとした足取りで再びハーバル邸の玄関まで歩き、扉を叩いた私を、出迎えたギルは明らかに不審がっていた。

「…忘れ物か?」
「…ううん。違う、んだけど……」
「…。よく判らないが、とりあえず座れ」

中へ入ることを促される。居間の暖炉の暖かさも、書斎のソファの座り心地のよさも、既に知っている私は魅惑的な誘いに飛び込んでしまいたかった。でも、先程の少女の涙が脳裏にちらつく今そんなことはとても出来なくて。

本当に、玄関に張り付いてしまったみたいに、つま先すらぴくりとも動かない。

「ごめん。…ここでいい」
「…そうか」

開いた扉に、寄りかかるようにして、ギルは私を見下ろしている。
その光景に多少の違和感を覚えながらも、何から説明しようか思考をフル稼働している頭では、刹那の感覚なんてあっという間に追いやられてしまった。

「あの、……あのね」
「ああ」
「…その…、ご、ごめん…ええと……」
「―――大丈夫だ。全部聞く」
「う、ん」

口篭る私を、ギルは決して急かさない。考えが充分に行き渡るよう、たっぷりの時間を与えてくれた。けど、だからこそ私は、熟考の末に気付いてしまった。

何から説明しようかなんて考えても、そんなもの出てこなくて当たり前なのだ。
説明しなければならないことは初めから一つもないのだから。

ただギルを想っていると自覚した瞬間、無性に彼の顔が見たくなっただけ。

「―――っ!」

全身を、熱が巡る。それはそれはすさまじい速度で。
もう、ギルの顔を直視することは出来なかった。これから先もずっと出来る気がしない。俯く間際に一度だけ覗き見たギルの、切れ長の瞳が見開かれていて、自分のことを差し置いてその表情に疑問を抱いた。

どうしたの、ギル。

人様の玄関先に佇んだまま、簡素な問いかけと頬の火照りを持て余す。


「……お前……」
「ひゃぁっ!」


頬に触れた手のひらを咄嗟に払いのけたら、残ったのは奇妙な沈黙。ギルが凍りつくのが、漂う空気からひしひしと伝わってきて。ごめんとか、びっくりしただけとか、気にしないでとか、言いたい台詞は山ほどあった。
そのどれを音にしたのか覚えてない。全部告げた気もするし、もしかしたら何も言わなかったのかも知れない。

「おい」
「…っぱりもうここには、来ないね!」
「おい!アカリ!待て!」

触れられた感触ごと頬を押さえ、ハーバル邸に背を向けて駆け出した。
ギルの言葉を無視したのは初めてだった。


自宅の前まで疾走してしゃがみ込む。ぜえぜえと荒い息を整える視界の端、鈴なりの苺が見えた。
赤く色づいている実はたったの二つ。今日、ギルと二人で味見をしようと思っていたもの。
そのうち一つを、無造作に摘み取ってかじった。

「すっぱい…」

見た目だけは宝石のようなのに、なんて酸っぱいんだろう。摘み取るのにはまだ早かった。

早かったんだ、まだ。私の気持ちも。
摘み取って吟味するほどには、甘く熟していなかったのに。

気付いてしまったことを後悔した。


どうして、もう少し実ったままでいてくれなかったの。



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20090405:アップ