アカリの頬に、花が咲いた。

頭の中でまさかと打ち消す。都合のいい勘違いだと自分を諌めて。同時に、この憶測が当たっていればいいと思っている僕がいた。
確かめたかった。ぼやけた感触を手にとって、確認したかった。

頬に触れた僕の手を、思い切り払いのけて。そうしておきながら、された僕よりもずっと傷ついた顔を見せて、アカリは走り去っていった。

それから、てのひらに残された温もりとしびれが、ずっと消えないでいる。


::: 刹那的ブックマーク :::


木製のドアが、きしんだ音を立てて開いた。時間帯が昼前だということもあり、反射的にそちらを見やる。静かに陽だまりを運んでくる、ある人の顔を思い浮かべながら。

「すみません、返却に来ました」
「はい。ではこちらの紙にお名前を…」

けれども役場を訪れたのは彼の人ではなく。応対するエリィの後姿を視界の端に、一人落胆する。

アカリが僕の手を払いのけ、役場にも来なくなってから。
僕はもう、自分の気持ちに対して、意地を張るのをやめた。
何故ならごまかし続けることが無理になってしまったから。

片隅のソファを見る。
少し前までは確かに、ここにはアカリの温もりがあって、無心に活字を貪る姿は何度も僕を息づかせた。人より遅いこと、一人では読めないこと。それらを恥じながらもただ物語が好きで、知識を得るのが好きで、読書に没頭する彼女の姿が―――ふと目が合うと浮かべる微笑みが好きだった。

不安げに、面をあげた刹那を、だから僕は見逃したことはない。
いつも目があうと、アカリは瞳の奥のほうから、染み出るように笑った。その表情。

「何か、あったんですか」

返却を終えた訪問者を見送って、振り返ったエリィのそれは、疑問ではなく断定口調だった。
今の状況を、そして前の状況との差異を、知る者からすれば当然のことなのだろう。けれど、返答に困って眉間にしわを寄せる。
何かあったと、問われれば、僕とアカリの間には何もなかった。
少なくともあの日の朝、慌しくアカリが出て行き、ややあって戻ってくるまではいつも通りのやりとりだった。ところが再度家の扉を叩いた彼女は酷く沈んだ様子で、何かを打ち明けたいようだったから居間へと促した。
アカリはそれを断って僕を見上げた。

見上げてきた―――赤い顔をして。

ああ。だから僕は。

「…触れようとしたんだ」
「…はい?」
「変な意図はないぞ。ふわふわと心許なかったから、触って、確かめたかっただけだ」

聞かれたから正直に答えたのに、質問をした当事者の顔は訝しげだった。
もしかすると正直に答えたからこそ、相手は疑問符だらけなのかも知れないが。暫しの沈黙の後、とりあえずは彼女なりに納得したらしく、一度頷いてエリィは紡いだ。

「じゃあ、触れてみて、心許なさは解消されたんですか?」

重ねられた問いは、まさに今、僕が持て余している気持ちだった。
また言葉に詰まる。今度は何も言えないまま。

口篭る僕に、緩やかにエリィが笑う。

「今日は仕事も少ないですし、午後からお休みされてはどうですか?…春の牧場、きれいですよ」

アカリを指し示すキーワードに、心の中、揺れる牧草地の映像が過ぎった。
風を受けて波のようにうねるそれの、こすれあう音と揺れる木漏れ日の下で、彼女は一人で物語を広げているのだろうか。そうだとしたら恐らくは、また、あの寂しげな瞳で誰かを捜す。

視線が交わった瞬間、誰かが、あの微笑みを目にする―――そんなのはごめんだった。

もう、やめたんだ。自分の気持ちに対して、アカリへの気持ちに対して、意地を張るのは。
それではきっと、ずっと手に入らないと気付いたから。

「…ああ。そうさせてもらう」

僕は手早く半休届を書き付けてエリィに渡した。それを受け取る人の顔はにっこりと屈託なくて、気恥ずかしさは半端なものではなかったけれど、背を押してくれたことに感謝をしてもいた。
実のところ行動に移す踏ん切りがつかなかったからだ。

今だって、会ったところで何をし、何を伝えるべきなのか判らない。
だけれども、彼女の顔を見たら自然に身体が動く予感がした。

初めて、アカリに声をかけた時のように。

しかしそんな、些細な予感よりも。
後に目にする光景のほうがより強い衝動となって僕を突き動かすことになるのを、この時はまだ知らなかった。



モラのつぼみが開きかけている。
濃い桃色のそれはこの町の春の代名詞で、咲き乱れる満開のモラは毎年、住民が心待ちにしているものだ。アカリの牧場へ向かう道、僕もわずかに開いた花を眺めながら、比較的穏やかな気持ちになっていた。

本格的に花が開いたら、アカリと花見をしたいと思っている。
満開のモラの樹の下で本を読んだり、他愛もない話をしたい。

花々に囲まれていても、僕の好きなあの、アカリの柔らかい笑顔はその色合いに引けをとらないだろう。らしくない言葉だが、現状のままではそんなささやかなイベントも楽しめないのだから、叶ったらどんなに幸せかと思う。
踏みしめるように歩く。アカリの牧場へは、あっという間に到着した。


そして目に入ってきたものに、それまで緩やかだった鼓動が脈打つ。


既視感を感じたのはごく一部。アカリが、自宅の横のベンチに腰掛けて、本を読もうとしているところまで。そこまでは一年前と何ら変わらない光景だった。
けれど今、彼女の隣に腰掛けているルークの存在はなかったはずだ。

あの時のアカリは確かに一人だった。
本を読んではやめ、やめては読んで、不意に伏せるまつげの動きをくっきりと覚えていたから。

「……んの?」

僕の足は硬直して、後にも先にも進めないままその場に立ち尽くす。

そんな状況下でも、はっきりとは聞き取れないが、ルークがアカリに何かを問いかけたのは判った。訊ねられたアカリは何度か瞬いて、そして俯いてしまう。膝の上、そろえられた手のひらの下には、一冊の本が納まっている。彼女の表情はまるで一年前のあのまま。

違う、だろう。

自分の中に、堪えようのない感情がこみ上げるのを感じた。
ルークを腹立たしいと思った。

本を携えるアカリに、そんな顔をさせるな。


アカリの微笑みを、誰にも見られなくないと思ったことは本当。だけれど、誰かが悲しい顔をさせるのも嫌だった。相反する思考。支離滅裂なこの気持ちは全然まとまる気配を見せない。

―――それでも、身体は動いた。


「…!」

僕に気が付いた二人は揃って目を見開く。二人に構わずただアカリだけを見て、足早に彼女の前まで歩いた。僕が正面に立った途端、アカリは俯いて顔を隠してしまう。駆け去ったあの時のように。

「話がある」
「わ…私は、ないよ」

元より、笑いかけてくれることなど期待していなかった。予想の範疇の反応と言えばそうだ。
でもそれは、少しも傷つかないと言うことではない。

「僕があるんだ。長くは取らせないから付き合え」
「いいったら」
「良いわけないだろう」

一つ大きく溜息をついた。こんな風になったままが最善とは、アカリだって思っていないはずだ。
彼女の隣に腰掛けるルークは、完全に立ち去るタイミングを逃したという表情でやりとりを見守っている。場所を変えようと思い立ち、アカリの右腕を捕らえ促すように引いた。小さな抵抗が伝わる。

「アカリ」
「ほんとうに、ないったら!」

咎めるように呼んだら、また腕を振り払われた。今度は明確な拒絶の意志をもって。
普段物静かなアカリは、実は相当に頑固でそして、こうなってしまった彼女を解れさせるのはとても根気の要る作業だった。その手のかかりぶりは、時折本当に年上なのかと疑いたくなるほど。

「っ…」

僕は焦れた。元より繕った余裕だった。

「たっ」

無言のまま、今度は力を込めて腕を掴む。振り払えないように。無論アカリは抵抗したけれど、構わず連れて行こうとする。
無理やり立たされ、歩かされるのが嫌で、踏ん張っているのだろう。てのひらに伝わる彼女の感触は重たい。掴まれていないほうの手で僕の拘束を解きにかかるので、僕も自棄になって益々力を込めた。音のない静かな攻防。

ルークは一部始終を見ているはずなのに何も言わない。
意外に聡いルークのこと、僕たちの置かれた状況を何となく感じているらしかった。

ややあって、白旗を揚げたのはアカリ。
こちらに意地でも離すつもりがないと悟り、引き寄せる力へ逆らう動きが鈍くなった。けれどまだその身が強張っているのは、捕らえた華奢な腕から如実に伝わってくる。

一度だけ、下唇を噛み締めて。今度こそ歩き出す。

「…いたいよ、ギル」

諦めたように後に続くアカリが、言の葉をか細く漏らした。
聞こえていた。この耳は確かに訴えを拾っていた。

それでも、腕の力を緩めてやれなかった。



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20090414:アップ