もしもこの物語を、流行りの小説のように詩的に書き出すとしたらこうだろう。

あの夜、二人の間に起こったことはただ一度の過ちだった。
戯れが過ぎて生まれた奇妙な熱を、二人してもてあました。そして彼らは抗う術もなく、その熱に浮かされて、弄ばれたのだ。

けれどいくら美しい文字であつらえてみたところで、実際に彼らの間に起きた物語の半分も、それは如実に真実を語ってはいなかった。あの夜を境にルークがやけどを負ったことなど、先の文章からでは欠片も読み取れはしないのだ。


::: queimadura 01 :::


「最近全然姿を見かけませんね」

斧を打ち付ける音によって、ボアンの囁きは掻き消えた。耳に入りきらなかった言葉を催促するように、ルークはちらと彼を見やって、新しい薪を台にセットする。

「だから、アカリさん…うわっ」
「あ…、悪い」

台から転げ落ちた薪がつま先擦れ擦れに落ちて飛びずさるボアン。見た目は小さくとも、木材と言うものは得てして重量があるのだ。拾い上げたそれをルークに手渡しながら、年齢の割りに大人びた少年は呆れたような息を一つだけ吐いた。

「素直と言うか、判りやすいと言うか…。喧嘩でもしたんですか?」

じっとりとした視線を振り切るように、構えた斧を強く振り下ろす。きれいに繊維を裂かれた薪が左右に割れて、ごとりと音を鳴らしてから。ようやっと、ルークは一言だけ返した。

「…してねえよ」
「それが本当なら益々疑問ですよ。この間まで、毎日のように顔を出してくれてたのに…」
「最近動物買ったって言ってたし。作物も増やしたらしいし。あいつも忙しいんだろ」

言葉を交わしている間に二つ薪を割った。三つ目に取り掛かろうと、積み上げられている薪に伸ばした手は、ボアンによって遮られてしまった。強く彼の手首を握った少年の瞳には、困惑と非難がありありと浮かんでいた。

「アカリさんが来なくなってから…先輩も可笑しいですよ。なんだか冷たいです」

手首を戒めているその指は立派に節くれだっていて、肌は日に焼けて浅黒かった。顔も声もまだ幼いながら、それでも彼のつくりはきちんと男性なのだ。
ほんの少し前、同じように手を握り込んできた指はどうだっただろう。手は、肌の色は。

「ごめんな。オレは、ちょっと…疲れてるだけだから」

月の輝く、たった一夜の、少女の抜けるような白さがルークの脳裏をちらついた。


あの日催された、二人だけの飲み会のきっかけはなんだったろう。確かルークの慰安会という名目だった気がする。ウォンとアニスが結婚したことを冗談めかして愚痴ってみたら、ひどく意外そうな顔をしたアカリはそれきり黙ってしまったのだ。暫くして口を開いた彼女が紡いだ言葉はたった一言。
飲もう、だった。
場所も酒もアカリが提供という形で、あれよあれよと立てられたプランは、当日の夜には決行された。
二人で飲むのは初めてではなかった。ルークがアカリの家に入り浸ることもしばしばあった。
それでも彼らの関係は、世間一般に言う友人の枠に収まっていたし、互いにそう認識していると思っていた。そう―――認識していると、思って、いたのに。

「オレの心のマドンナだったんだよぉ…」
「うん、よしよし。悲しいね」

へべれけになりながら、それでもしっかりとグラスを握って離さないルークの訴えを、アカリは柔らかな声で肯定した。完全に酔いの回った頭でも、耳に心地よかったその声音を反芻していると、向き合う形で座っていたテーブル越しに彼女の手がそっと伸ばされて。
前髪と、額を、くすぐったくなるほどそっとなぞられたのだ。
元来スキンシップ好きなルークから、喜んだ勢いで抱きしめたり、手を引いて先導したりとアカリに触れることは時々あった。けれどアカリから触れてくるのは長い付き合いでも初めてのことだった。
よしよし。よしよし。繰り返されるたった四文字の言葉と些細な動作。

たわんだ彼女の襟元からまみえる鎖骨の、予想もしていなかったまろみに、形作られた線の美しさに、知らず目を奪われた。

ただ言い訳をするだけなら、この時青年は極限まで酔っていたという一文で事足りた。
けれど彼の気持ちを事細かく分析して説明するとなると、途端にとても難解な作業へと成り代わった。何故ならこの時ルークは確かに、自らの本能の中心で、アカリに触れたいと感じてしまったから。

「…ルー…ク?」

青年の瞳の色が変化したことを、少女は見逃さなかった。それでも、怖じて手を引っ込めるには、少しばかり行動が遅かった。

捕らえた手首はほっそりとしている。アカリが細身なのは、とうに知っていたことだ。
しかしながら、友愛の情で接することと、欲望のままに触れることでは、その受け取り方もずいぶんと変わるのだなと、少女を抱き寄せながら思った。
耳朶を噛んだら、されるままだった少女は流石に非難めいた声をあげた。

「ルーク!冗談にしても、行き過ぎてる…!」
「……冗談じゃねえよ」
「酔ってるんでしょ。飲み過ぎたんだよ、今水持って…きゃ…!」

抱えあげた体は軽い。なけなしの抵抗は、鍛えられた青年にはあまりに微弱だった。
仕舞い込まれた熱を引き出すように。ルークの指先はその無骨さに反して繊細にアカリを誘導していった。アルコールの力も手伝って、放たれた温度はすぐに小さな小屋を満たした。

そしてその夜アカリは、ルークの腕の中で花を開かせたのだ。


「先輩、手が止まってますよ」

ボアンの訝しげな声にルークは意識を取り戻す。いくら勘が鋭いと言っても、あの日の出来事を少年が知るはずもない。けれど、全てを見透かされているような気がして、目を合わせることが出来なかった。
呆けていた間に、叩き割らねばならない薪がどっさりと横に積まれている。

「…お前作業早くなったなぁ」
「そりゃ、毎日修行に励んでますからね」
「最初見た時はあんまり細っこいから、斧が持てるか心配したっけな」
「まだ十にも届かない頃の話じゃないですか。今なら一通りはこなしますよ」

しみじみと感慨深く漏らしたルークの呟きに、ボアンはどこまでも冷静だ。冷静どころか、むしろ冷ややかだとさえ言える対応。いつもこのような態度をとる少年ではないことを知っているルークが、流石に異変を察知して、そして初めてボアンに向き合った。

「…そう。まだまだ青二才ですけど。でも、もう僕だって自分で道を拓くことは出来るんです」
「ボアン?お前、どうしたんだよ」
「先輩、お願いですから―――アカリさんを悲しませないでください」

その瞳はひたむきだ。
無垢な輝き。そこに込められた純真で、けれど複雑な感情に気づいた瞬間、全身がひりりと焼け付いた。体の表面をうっすらと瞬時に焦がされる感覚。
激情を押し隠すようにボアンが目を逸らした。ルークの心臓がドクリと鳴った。



一月が過ぎた。秋が深まりつつあった。
情けないことにルークがアカリの人気に気づいたのは極々最近のことだ。
気さくな性格と礼儀正しい態度から、子供や年配の人間に快く思われていることは知っていたが、それは島の若い連中にまで浸透していたのだった。
そういうことにまで目を配るようになった要因は、ボアンとのやりとりであるけれども。

今日のルークは、空いた時間を潰すために、釣りでもするつもりだった。
以前ならばこんな時は真っ先にアカリの牧場を訪れ、仕事を手伝い、くだらない遊びに二人して没頭したものだ。しかし今はそれも叶わない。遠まわしなボアンの宣戦布告を受けてから、尚更アカリに近づきがたくなってしまった。
だから一人でカラメル滝へ向かったのだが、失敗したかも知れないと思った。

久方ぶりに目にした少女の姿。

立ち去りたい気持ちと、話をしたいという気持ちが共存して、ルークの中でせめぎあう。それでも歩みを進める足が止まらなかったのは、無意識に後者の感情が強かったからだ。
しかし青年はやはり止まってしまった。そして一度立ち尽くしてしまえば、不思議と前進も後退も出来なかった。

アカリは、一人ではなかった。

「以前のような、笑顔を見たいのだと、言ったら…負担になるのかも知れませんが」

穏やかな水のような彼の、穏やかな声が、どうしてか鮮明にルークの耳に滑り込む。これは立派な盗み聞きだと、判ってはいたが足が動かない。

「私は支えたい。何があっても。あなたのことを」
「…タオ」
「……傍に居ては、くれませんか」

ルークの体がまた焼けた。前などとは比較も出来ない、炎に包まれたような熱さ。
それを冷ますように、はたまた燃やすように、ざあ、とひとすじの風が吹く。
後押しされてルークは駆け出していた。バンダナがはためいた。

早く。速く。逃げなくては。遠ざからなくては、いけない。
でなければきっと、燃え上がる心臓の音が聞こえてしまう。



突然だが、この物語を冒頭から否定しようと思う。彼らの間に起きた出来事を、流行りの小説のように詩的に書き出す必要などどこにもない。

こんなにも少女のことが好きだった。
けれど気づくのが遅かった。

語られるべき真実は、これだけなのだから。



NOVEL | NEXT