久々に訪れた家に、人の気配は、ない。彼には珍しい、躊躇いという感情を織り交ぜて木製のドアをノックしたが、気配がないように応答もなく、ルークはギルの言葉で持ち上がった決意が、再び萎んでいく気がした。

風がさわりと吹く。作物の擦れあう音。
葉に、土に滴る水滴は紛れもなく彼女が先程まで、そこに存在していたことを示した。

ただそれが愛しい。

ただ、それだけのことが。


::: queimadura 03 :::


季節が巡っても、畑を彩る作物が変わっても、そこは変わらずアカリの牧場だった。
けれど彼が知っていた頃の牧場には、なかったものが一つあった。

時折、動物小屋より聞こえる蹄の音。その正体であろう、動物の鼻息。

アカリが遂に酪農を始めたと、耳にした時には既に二人のこの気まずい関係は構築されていた。だからルークは、アカリがどのように動物に接しているのかも、何を飼っているのかも何も知らない。
導かれるように、無意識に動物小屋へと足を向ける。以前より幾分きれいになった気がする動物小屋の扉を、そっと押し開ければ、飼い葉と生き物の匂いがルークの鼻を刺激した。

そこにいたのは一頭の牛。まだ子牛で、身体は小さかったが、命が息づいているというだけで、子牛のいる区画だけが温もりを伴っているように見えた。

ルークは、鋭いほうだ。特に野性的な勘は優れている。
子牛が細い足を下げる動作一つで、見知らぬ闖入者に怯えていることがすぐ判った。当然だと思いつつ空しくなる。

もしも、アカリとの関係が良好に繋がっていたなら、そのまま続いていたならば。

ルークだってアカリの初めての酪農を一緒に喜び、一緒に目前の子牛の世話をして、がらりと変わった作物の手入れだって、一緒にしただろう。そうしたらこの子牛も今みたいにルークに怯えたりなんてしなくて。少女の愛犬のように青年に懐き、どっちが飼い主か判らないよ、なんて微笑ましい嫉妬をアカリは口にする。
それだけ一緒の時を彼らはずっと過ごして来ていて、そして青年は何の根拠もないのに、この先も続くことだと信じていた。ただ純粋に。

可笑しくなってしまった。
それは、自分が、不純なものを混ぜた瞬間から。

「…参ったな。オレ…お前の名前も、知らねえ…」

気にはなるのだろう、怯えつつも黒々した瞳はルークを凝視する。
鮮明に見える訳はないのに、それに映った自分の酷く情けない顔が確かに見えた。

「―――タオは、知ってんのかよ」


全身が、焼ける。
優しく手招きしてくるのに、そこへ飛び込むことを躊躇するルークを炎は逃がさない。彼の鼓動より早く、不意にびゅんびゅんと近寄ってきてしまう。
だからいつも逃げ切れない。

肌の表面を走って、何度も、何度も、ルークを焼き焦がす静かな炎の、出所を突き止めたら自分の心臓だった。


「ルイ?どうしたの…」

ガタリと音がする、それから、声が聞こえて。澄んだ音程をルークは振り仰いだ。

アカリだった。
いつも全身から瑞々しい、力強い光の粒を発しているひと。

久しぶりに直視する姿はまぶしくて目を細める。無造作に自分の胸倉を掴んだけれど、脈打ちの暴走を止めるには遅くて。
熱いんだ。ものすごく熱い。―――熱くて、痛い。

「……っ」

弾かれるように駆け出した少女を皮切りに、青年の爪先も床を蹴った。


お願いだ。これ以上、遠ざからないでくれよ。
水ぶくれたやけどの、かさついたやけどの、治療法が知りたいんだ。


二人の腰の高さまで伸びた、広大な牧草地をアカリは割った。踏み倒された牧草はくっきりと、判りやすすぎる道筋を作ってルークを導く。小鹿のように俊足な少女のことは知っていたけれど、上を行く速度を自らが出せることも、長い付き合いから知っていた。

風に煽られて、青年を包む炎は燃える。
距離を縮めるごとに威力を増すそれに、触れてしまったらどうなるのかなんて考える余裕もない。
とにかく触れたかった。

たとえ燃え尽きてしまっても、構わないから。


「―――……っ!!」

手首を捕らえた。尚も逃れようとするアカリの、反対の肩を掴んで、腕を腰に回す。
背後から抱き込んだ華奢な身体を、自分の胸に強引に手繰り寄せたら、抵抗する少女の足と縺れ合って後ろに倒れ込んだ。
尻餅をついた二人の全身を、茂った牧草がばさばさと叩く。
やがてその波も収まり、周囲がしんとすると、響くのは二人の激しい息遣いのみとなって。

「、っげほ…」
「……、…わり…」

咳き込むアカリの身体を、それでも緩く抱きしめるなんて出来なかった。
縋るように、手加減なく閉じ込めて、自分の身体に押し付けた。走った所為と、それだけではない原因の所為で、ばくばくと早鐘のような鼓動が、布越しに伝わるのが心地よくて。

焼けた表皮に、アカリの熱が沁みる。沁みるのに痛くなくて、かと言って治癒しているわけでもなく、痺れるような感覚がルークのやけどを上塗りしていった。

「…順番。滅茶苦茶だけど。行くなよ……、好きだ」

けれども、その感覚は嫌いじゃなかった。

「焼け死にそうなくらい、好きだ…」


あれほどルークを苦しめた炎。今アカリに触れる部分から広がる薄い膜。
それはきっと、どちらも同じものだった。


そう、唐突に理解した。


懺悔のような告白は、草の音にかき消されそうな程かぼそくて。けれど伝わっていると。
少女が受け止めたと青年が確信出来たのは、負けないくらいかぼそく息を呑む音がしたから。
いくつかの雫がぱたぱたとルークの腕に落ちた。
そんな小さな感触がたまらない。堪えるように、小さな背中にぐっと額を押し付けた時、ようやっとアカリの微かな笑い声がした。

「ほんとに…、…順番、滅茶苦茶だよ」

だけどルークらしいねと、伸びやかな声が鼓膜を打った刹那に、初めて彼のやけどは癒えた。


肌にまとわりつく膜が消えない。薄っすらと熱を持つ炎の膜。
きっと一生拭えないだろう。何故なら、アカリを、たまらなく好きだと自覚した瞬間に、それはあっという間にルークを包み、取り付いてしまったから。

肌を焦がすような痛みの炎を、少女に分け与えたいとは思わない。
けれど静かに、激しく燃えるこの気持ちだけ、一片でも伝わってほしい。感じてくれればいいと願う。


そんなことを願ってアカリをぎゅっと抱き寄せた。ルークの肌が少しだけ凪いだ。



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20081109:アップ