神様。―――神頼みなんてオレらしくない、判ってる。
それでもやっぱり、神様どうか、教えてください。


『人の幸せを壊して、己の幸せを手に入れることは罪ですか』


::: 20minutes :::


真っ白な紙にたった一文。書きなぐった勢いよりもはるかに強く、ルークは紙を握り締めた。ぐしゃりと鈍い、乾いた音が鳴る。気が済んだろうと青年に訴えるように。けれど気の治まらなかった彼は、細かく裂いた切れ端を、高いところからゴミ箱にひらひらと降り注がせて、それでようやく心を落ち着けたようだった。
舞ってばかりの紙切れは当然、きれいにゴミ箱には入らない。
白が散っている。
落ち着いたモスグリーンの絨毯に白い紙はよく映えた。今はもう読み解けなくなったシャーペンの黒い線だけが、鮮明なコントラストから浮いていた。

「…何やってんだ、オレ」

破った紙は学校からの配布物で、付け加えるなら、教師の指示した内容を自分なりにまとめ、再度提出するための用紙だ。破って捨てていいものでは、当然なかった。
不本意ながら怒られ慣れしている彼は、そこについてはあまり深く考えていない。ただ、ひどく疲れた顔で力なく机に突っ伏して、頬に掛かった髪を軽くはらった後そっと、目を閉じた。



『どうしても答えを見つけたい事柄を、一つだけ書きなさい』

いつもは有名な小説の一節だとか、賢人の残した言葉だとか、おおよそルークの興味の真逆をいく授業を展開する国語教師が、今日入室して一番に発した言葉がこれだった。きょとんとする生徒をよそに、教師は淡々と白いプリントを配布しながら、もう一度言った。

『知ることが出来れば自分の核となりそうな、あるいは勇気となりうるかも知れない、けれど答えの判らない大きな疑問を一つ挙げて、そして今週一杯使って答えを考えなさい』

じゃあオレは何でオレの姉貴は美人じゃねーんだってことについてマジで考えてみるぜ。あたしはお父さんが汗っかきなのは何でだろう、にしよっかな。
幼稚な発言で周囲の笑いと教師の怒りを買うクラスメイトたちの言葉は全て耳を素通りしていた。教師に課題を言い渡された瞬間、ルークが思い描いた疑問は冒頭の一つだけ。

窓際の一番前。見慣れた髪色の少女は、しゃんとした後姿をルークに晒している。
アカリは何て書くんだろう。それが二つ目であり、彼の頭に浮かんだ最後の疑問だった。



夕飯の匂い。夕日の差し込む部屋。涼やかな風と虫の音が網戸越しに鼓膜を震わせる秋の初め。小さく鳴ったお腹を除けば、ルークがまどろむのには最高の条件と言えた。実際青年はうとうとと、浅い眠りに落ちかけていた。

―――って、さ。…多分、不―――

瞠目して、身を起こした。あくる日の友人との会話が脳裏を掠めたからだ。
振り払うように頭を振って、ルークは先刻千切り捨てた紙を見やった。ゴミ箱の周囲に散らばったままの、迷い込んだ夕焼け色に染まったそれは、吹き込んだ風にふわりと揺れる。

「…今日、来る、んだったな」

ノックが響いたのはほぼ同時だった。キャスター付きの椅子を滑らせてドアへ向き直る。

「おう。入れば」
「お邪魔、します」

そろりと開いたドアからそろりと入ってきたアカリは、ルークの顔を見て口を弧の形にした。

「寝てたんだ?」
「あ?あー、うん。…んな眠そう?」
「てか、ほっぺたに服の皺の跡がついてる」
「おおっ」

言われて頬を擦るルークを軽く笑って、ベッドに腰掛ける少女。
アカリの家は近所で、従って幼い頃からのルークの友人だ。つまり、俗に幼馴染と呼ばれる関係なのだが、その事実を知っている人間は彼らの家族を除くと少ない。互いにそれを周囲に吹聴する性格ではないし、必要性も感じないと言うところが一番の要因だった。
だから学校での二人は、単なるクラスメイトとして周囲に認知されている。

「もう、ルーク」

ベッドの横の本棚に目を向けていた少女が、床の一部分を見て途端に眉を顰めた。

「汚いなあ。捨てるならきちんと捨てなよ」
「…おう…って、」

ルークの返事が面倒臭そうに聞こえたからか、息を吐いたアカリがさっと立ち上がってゴミ箱に近づいていく。捨て損ねた物が何でもなければ任せっぱなしにしたかも知れないが、今回は対象物が悪かった。
あの馬鹿げた文字の欠片を、少女に見られるのは色々と不都合だった。

「い、いいから座ってろっ」
「は?」

訝しげな表情をしたアカリが次々と紙切れを捨てていく。焦って椅子を蹴る勢いで駆け寄ったルークは、思わず加減を忘れてその手首を掴んだ。

「った!」
「自分でやるって!」
「判ったってば。痛いから離して」
「あ。……悪い」
「もう、馬鹿力」

よくよく状況を把握してみれば、二人の面は間近にあった。距離をとり、そそくさと手を解放する青年と対照的に、少女はどこまでも落ち着き払っている。
幼馴染。竹馬の友。物心ついたときから傍にいる存在。手や足が触れ合うなど茶飯事で、慣れきっているはずなのに、最近は妙な意識がルークの中でふわふわと漂っていた。
けれど、それは言い表しようがない気持ちだった。強引に言葉にするなら、これだけ身近にしていながら―――否、だから尚更なのかも知れないが、強く捉えたアカリの手首が鳴った時初めて、その細さと頼りなさを知ったような、変な心持ちになったのだ。

「…自分でやるんじゃ、ないの?」
「おっ、おうっ!もちろん!」

毛足に絡まった紙くずを乱暴にかき集め、丸めて捨てた。本当にかき集めて捨ててしまいたいものが何なのかは、考えないことにした。
たかだか一枚のプリントの切れ端分しかない、ゴミの清掃作業は一度で終わった。

「掃除完了。こういう単純作業を後延ばしにするから、ルークの部屋はだんだん」

鼻から息を抜くように、ふっと静かに笑うのは小さい頃からのアカリの特徴だ。今回も例に漏れず、そう笑みを流してから小言を連ねようとしていたアカリは、しかし、鈍い音に驚くほど敏感な反応を見せた。
何のことはない、彼女の胸ポケットで震える携帯のバイブレーション。

けれどその音こそが、彼女がここに来た目的と直結する、とても大きな意味を持っていた。

カチカチとボタンを操っているところを見ると、メールのようだ。覗き見た横顔が、ルークに見せるのとは違った意味合いを含んでいる。鼻で笑わない微笑み。口端を引き結ぶ表情は、嬉しいことを堪える時の、アカリの癖だった。

―――これだ、と思う。最近のルークが妙にアカリを意識してしまうのは。

「…何時って?」
「18時半くらい」


想う人のメールに瞳を溶かして、そうやって不必要に、一端の女性の顔を見せるから。


「…なら、今から出れば、丁度だな」

出来るだけ流れるような動作で、出来る限りさり気なく、コルクボードにかけてある自転車の鍵を取り上げる。椅子の背凭れにかけてあったジャケットも握って、未だ返信に意識を向けているアカリに放った。

「わっ」
「着てろよ。どうせまた後ろで寒いとか言い始めるんだろ?」
「失礼な。これでも過去の反省は生かしてるつもりなんだけど」
「じゃあいいや。そこら辺に置いといてくれよ」
「…一応、借りとく。一応ね」

一応と繰り返しつつも、袖を通した上着の前をきっちり閉めるところが正直で笑えた。
青年が着ると七分袖のそれは、今、細身なアカリの手首まで届く。そんなところにまた異性を感じてしまう。
この思考の連鎖は勝手だと、頭では判っていた。けれど意識では断ち切れないのだ。

「月曜日って、この時間だったら、そんなに道混んでないよね」
「自転車だしあんまり関係ないだろ。…オレ、先行ってるぞ」

階段を降りる動作が足早になる。少女の“女性”に当てられた時、青年は決まって距離を取りたがった。半ば無意識とも言える逃避行為だ。
けれどアカリがそんなことを知ってはいけない。急いでいると思っていればいい。
ルーク自身、この焦りの奥に、何が在るのか気づいてはいけない気がした。


―――想い人。名前、年齢は不明。

土日は会えない。会う時にはやや大人びた服を着用する。
連絡は向こうから来るのを待つ。待ち合わせ時刻はいつも18時以降。
自転車で20分かかる、少し寂れた町の喫茶店が主な指定場所。

断片的に得た情報について、当事者の名は隠して、親しい友人に問うてみた。

『…それって、さ。…多分、不倫とか、浮気とか。何か…あんまりいい予感、しないな』

これがその、答えだった。



外れかけた荷物かごをカタカタ言わせながら、錆びた街頭の点る道を、ルークは走っていた。荷台に横座りしているアカリが小さく、寒い、と呟いたのが聞こえて笑う。

「なっ。だから言っただろ?」
「完璧な誤算だよ。夜がこんなに早くて、こんなに冷えるなんて…」
「そうだ、それなんだけど。アカリ。この間歩いて帰って来たのか?」
「…うん。実はお店まで送ってもらった後、携帯確認したらキャンセルメール入ってて」
「ならすぐ連絡しろよ。…いくら田舎ったって、女一人で夜道は危ないだろ」
「だけど、何か。そんなこっちのドタバタな予定にまで、ルーク付き合わせるの、悪いよ」

吹き抜ける風の音に混じって尚、鮮明な科白に、何も返せなくて青年は押し黙った。


この可笑しな送迎は、元々は、一度だけの約束だった。

早急に会う約束が出来たけれど、自転車が壊れているから急いで向かえない。お願いだから送ってくださいと、珍しくも両手を合わせて懇願されては聞くしかなかった。
不倫かも知れなくて、浮気かも知れなくて。
それでも恋人関係である男の元に、少女を送るというのは正直ルークとしてはとても微妙な役割りだった。それはアカリにしても、―――相手の男にしてもそうだろうと思って、だから、これっきりだと考えていた。
けれどその帰り道に、アカリの漏らした寂しげな言葉が、ルークの意思を変えた。

『何かね。あの人、あたしがルークの荷台から降りるところ見てたみたいで』
『…あー、えっと…、…悪い。何も考えてなかった』
『違うの。謝るのはこっちだと思う。ごめん』
『何で?』
『…卑怯かなとは、思ったんだけど。ちょっと反応が見てみたくて、ルークとの関係をはっきり説明せずに曖昧にぼかしてみたんだ。…少しは、妬いてくれるのかなって』
『…ふうん』
『ごめん、利用して。でも大丈夫。あの人全然気にした素振りも、妬いてもなくって。何かもう悲しいくらいにいつも通りで、と言うかむしろちょっと上機嫌になってさ。良かった、って』
『はあ?』
『僕は家まで送ってあげられないから丁度良かった…って、笑顔で言われた』

その時の心境をどう説明したら伝わるか判らなかった。
何が腹立たしくて、何に腹を立てているのか、自分でも掴みかねるほどの勢いで、すさまじい感情がルークの中を駆け巡った。それが激しい憤りであることは自覚したが、ぶつけ所を見つけられずにいた。
けれど内部で消化するにも大きすぎたうねりは、自然愛車―――自転車だが―――のペダルを踏み込む原動力へと変換された。結果的に、アカリの自宅へ到着した時のルークの肉体的な、そして猛スピードでひた走る荷台への乗車を余儀なくされたアカリの精神的な、疲労値は双方笑いを誘えるくらいに高かったが。
ひとしきり互いを笑いあったこの時、少女がどれだけ救われたか青年は知らない。
そしてこの出来事以降、姿も声も知らない『あの人』に当てつけるが如く、ルークはアカリの送迎を買って出るようになったのだ。


あと3分ほどで喫茶店に着く―――着いて、しまう。
カタカタと小うるさい前かご。ぴゅうぴゅう鳴る風は冷たくて、二人の髪を愛撫しながら、鼻のてっぺんと頬の温度を奪っていった。

「…別にさ…」
「えー?何?聞こえない!」
「だから!付き合わせるとか!…悪い、とか、そういうの気にすんなよ」
「まあ言うほど気にはしてないんだけどね」
「おい」
「嘘」

聞こえるか、聞こえないかくらいの囁きを耳が捉えた。同じくして、背中の中心に、意図的に何かが押し付けられる感覚があった。推測でしかないが、その位置的に、アカリの頭。

「めちゃくちゃ気にしてるよ」

殊勝な声音と言葉に、不謹慎ながら胸が跳ねた。精神の乱れは如実に運転に表れたが、もはや荷台に乗ることに慣れてしまったアカリは、ルークの腰を持ちバランスを保つことで、乱れが自分の所為であるということにも気づかないまま回避する。

「…何か…、アカリがしおらしいって、変な感じだぜ…」
「どういう意味かな…まあいいや。それよりルーク、考えてみてよ。片道20分の往復だから、単純に40分のような気がするけど。でも送り迎えのたびに往復してるから計80分、つまりは1時間20分も、あたしはルークの時間使っちゃってるんだよ?」
「オレが構わないんだったら問題ないだろ」

それより暗い中歩いて帰られる方が心配だって。
段々と湿っぽくなってきてしまった雰囲気を吹き飛ばそうと、普段の口調よりも殊更に冗談めかしてルークは言ったが、アカリは流されてはくれなかった。リミットまで、あと1分。

「でも。1日の時間の、24分の1とちょっとを、奪ってるんだよ」
「だーかーらー!オレが気にしてないんだから、アカリもあんまり考え過ぎ…」
「だけどっ!」

さっぱりした性格の少女らしくなく、うやむやにさせてくれないことに多少の苛立ちを覚えた青年は語気が若干強くなった。けれどもそれを上回る、アカリの叫びが鼓膜を打つ。

「後ろめたいよ!こんなっ……」


―――こんな、後ろ暗い恋愛を、何も知らないルークに応援させてることが


どうやら己は耳がいいらしい。定期健診はいつも適当に済ませているルークは、その事実を今初めて自覚した。そしてそれは、必ずしもいいことばかりではないことも同時に知った。
出来れば聞きたくなどなかったこと、アカリも恐らく意図的に、聞こえない音量で紡いだのであろうことを、ルークの耳は容易く掬い取ってしまったから。

「アカリ!何だって?―――悪いけど聞こえなかった!」
「なら、いいよ!…くだらないこと、だから!」
「く…」

くだらなくなんか、ないだろ。
思わず零れそうな言葉を堪えた。でなければ、聞こえない振りをしたことが露見してしまう。

唇をかみ締めて最後の角を曲がると、夕焼け色をしたランプの明かりが漏れる、小さな喫茶店が見えた。古ぼけた木造と、曇った大きなガラス窓の奥、数人の人影が見える。その中に『あの人』はいるのだろうか。

「ルーク。送ってくれてありがとう…それと、上着も。やっぱり寒かったから助かった」

礼を告げて、確実な足取りで店へ向かうアカリの背中をぼんやりと送る。こじんまりとした店に、大人びた格好で、懸命に背伸びをする幼馴染が吸い込まれていくのを見ていた。

タイムリミットだと告げるには、優しすぎる景色だった。



闇夜に浮かぶ道を、行きよりもずっと速いスピードで走り抜けながら、ルークは課題のことを考えていた。夕方書き殴った疑問は解決した。正確には先ほど解決した、のだが。
ルークはだから、新しい疑問を考えなければいけない。

人の幸せを壊して、己の幸せを手に入れることは罪ですか、なんて。何て幼稚な疑問だ。

『あの人』と『あの人』の家庭を脅かしてまで、アカリは幸せを手にしたのかと思っていた。けれどそうではない。少女は常に悩み苦しんでいる。彼女の性格上、甘やかな出来事を体験するのに比例して、同じくらいの罪悪感に苛まれるのだろう。

そしてそんなアカリの、縋るような幸せを打ち壊してまで、ルークは自分の感情を優先させることは出来なかった。少女を悲しませてまで、想いを通そうとは思えない。有体な、それでもたどり着いたただ一つの答えだった。


行く時は見上げもしなかった空に、きれいな星空が刷かれていることに気付く。


携帯が鳴ったら家を飛び出して。自転車のかごをカタカタ言わせながら、浸りきれない幸せを満喫しようとしている、愚かで健気な幼馴染の少女を迎えに行こう。
帰り道、本当は飛ばせば20分もかからない夜の道をゆっくりと進んで、くだらない話をたくさんしながら帰宅するのだ。この星空を見たらきっと喜ぶだろう。

背中に親しんだ温もりを伴えるなら。今は、それだけでいい気がした。



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20080110:アップ