近付いてくる慌しい足音を耳が察知して振り向いた時には、その姿はもう間近に迫っていた。避け切れず半端に身を翻したチハヤと、俯いたまま疾走していた人物の肩が接触する。

「わっ、何…」
「ごめ…なさいっ、ごめんなさい…!!」
「え…アカリ?」

搾り出すように謝罪して、アカリはするりと横を駆け抜けていく。こちらを窺う気配もなかった。
只ならぬ様子に胸騒ぎを覚えながら、不意に視線を感じて顔を上げれば、彼が向かっていたプラリネの木立に佇む黒髪の女性が心配そうにアカリの消えた方向を見やっていた。


::: Secret Voice 08 :::


けたたましい音をたててドアを開ける。中に入り、開けた時と同様の勢いでドアを閉めたアカリは、そこで全ての糸が切れてしまったように脱力した。ドアにもたれたままずるずると玄関に座り込む。

「っ、……は」

しんと静まり返った部屋に、己の息遣いと鼓動だけが響く。肺と心臓が悲鳴を上げている。
木工所から自宅まで全力疾走した所為もあるだろうが、それだけではないことは彼女自身が一番よく判っていた。

「…なん、でっ…!」


ルークにキスをされた。
狙いを定めた獣のような瞳と、己を絡め取った力強さを、肌がありありと覚えている。


前へ進もうと思ったのだ。チハヤに逃げ出すのではなく、チハヤへ踏み出そうと。
ルークと話をすることは、そのために、今の自分が何をすべきか考えての行動だった。
笑って応援してくれるとまでは思っていなかった。けれどまさか、あそこまで怒られるとも―――怒らせるとも思っていなくて。ましてやキスされるだなんて。

「……馬鹿…」

ぽつりと呟き、抱えた膝の間に顔を埋める。
どれほど悪態をついても、期待してしまう自分を止められなかった。あの溌剌とした青年の突拍子のない行動に振り回されるのなんて慣れていたはずだ。けれど先程の行動の裏にあるものは何だろうかと考えてしまう。そうしたらつい期待をしそうになる。

ルークには想う人がいる。私よりずっと綺麗で女性らしくて素敵な人。

言い聞かせるように何度も何度も心の中で繰り返した。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。
ようやっと呼吸が整ってきたところで、ゆっくりと顔を上げたアカリの目に映ったものは、ダイニングテーブルの中央に置いてある小さなバスケットだった。
その中に詰まった取り取りのパンを、黙々と焼いてくれた青年の後姿が、不意に脳裏を過ぎった。

―――チハヤ。


「アカリ」


その名を思い浮かべたのと、遠慮がちなノックが室内に響いたのがほぼ同時。
背にした扉越しに、チハヤの静かな声が届く。折角落ち着きを取り戻しかけていた心臓が再びドクンと疼いた。

「…アカリ、居るんでしょ」
「…!」

コンコン。再度行われた控えめなノックに、弾かれたように背後のドアを振り仰ぐ。それは確実に空気と鼓膜を震わせている。

どうしよう。
どんな顔をして、会えば。
きっと今の己は酷い顔をしているに違いないのに。

「―――入るよ?」

開けないで、という言葉は音にならず宙に消える。その時アカリにできたことと言ったら精々目元を擦って涙の跡を隠すことくらいで。
平然とした表情を繕うことは愚か、立ち上がることさえままならないまま、開かれたドアの間から入り込む光に目を細めた。

しかし、僅かに開いたドアがそれ以上開くことはなく。

「…」
「…」
「…もしかして、アカリ、そこにいるの」
「……あ」

当然その極僅かな隙間からチハヤが入室することも叶わず、アカリはようやく自分が扉を背もたれに座り込んでいるという現状に思い至った。

「…うん。力抜けちゃって」
「どういう状況だよ……」

呟きが聞こえたけれど、問いかけている口調ではなかったので、少女は何も答えなかった。

「はあ。…ちょっと移動できる?」
「……無理、かも。脚、力入らなくて」
「匍匐前進でもしたら」

穏やかな声がさらりと吐いたそれが、割合本気の台詞だということは察したが、アカリは小さく笑うに留めておいた。笑いながら視界が歪んだ。瞬けば止まったはずの涙がまたぽつと太腿に落ちて。

「ごめん、チハヤ。今日は、帰って欲しい…」

嗚呼、やっぱり今日は彼と向き合えそうにない。どんな顔をして会えば良いか判らない。
わななきそうな口元を押さえて。これ以上心配をかけまいと、極めて明るい声音で伝えたアカリの希望に、チハヤの回答は実に明快だった。

「うん―――嫌だ」
「ありが……え?」
「嫌だって言ったんだよ」

厳かな、決然とした声だった。それに驚く間もそこそこ、もたれた扉にゆっくりと、けれど強い力で確実に背中を押され、へたり込んだままの身体がズズと移動する。
次第に広がっていくドアの隙間は、やがて隙間と表現するものではなくなり、昼間のうららかな日の光を広く室内に届けるまでになった。

「今朝も言ったよね?君の世話人になりたいわけじゃないって」

靴音を響かせて入ってきたチハヤの顔が、微かに歪んでいるのを認めて、アカリは目を見開く。
ドアに体重を預けきっていたため、閉じられたそれに従い後ろにバランスを崩しかけた少女を、青年はしっかりと支えてくれた。

目の前に膝を付いたチハヤの、肩に触れた手が熱い。

「考えてよ。何で僕が気持ちを伝えたのか…もっと考えて」

こちらを射抜く、真っ直ぐな紫の瞳は、悔しい程に美しかった。
逸らすこともできずに暫く見つめ続けていたそれが、不意にアカリの口元に移るのを見た。ルークを噛んだ時、己の唇も切ってしまったのだ。

「…っ」

咄嗟に手の甲で口元を隠す。
幸いにも窓にはカーテンが引いてあり、扉さえ閉めてしまえば日中とは言え室内は薄暗い。こんな小さな傷、もしかしたら気付いていないかも知れない。そうであって欲しいとアカリは願った。
けれどチハヤはアカリの懇願をあっさりと打ち砕く。

「ルークに、やられたの」

断定的なそれはとても冷ややかな音だった。

背中をひやりと寒いものが走る。薄寒さの中でぽっかりと浮いている、チハヤの掌の熱だけを感じながら、アカリは無言で首を振って否定した。やられたのではない。自分でやったのだ。
チハヤはふうんと気のない相槌を寄越して、右手を頬まで滑らせてくる。

「じゃ、正当防衛の誤爆ってところかな。…どっちにしても、『何か』はされたみたいだけど」

やんわりと口元の手を払われた。親指で頬を伝った涙の跡を拭われ、そのまま血の固まった左の口端に触れられて、アカリはつっと顔を歪めた。

「―――アカリは誤解してるよ」
「…誤、解?」

傷跡から移動して、薄い下唇をなぞりながら、チハヤは昏い瞳で薄く笑う。

「君が思ってる程僕には余裕がないんだ。ないどころか崖っぷちだとさえ思ってる。今だって…!」

肩を掴む手にぐっと力がこめられ、アカリは身を強張らせた。
彼女の反応に気が付いたのか、自らを落ち着けるように一呼吸置いて、言葉を続けるチハヤ。

「…あんなに手荒に扱われたくせに、何でまたルークの所にのこのこ出向いたのかって、さっきからそればっかり思ってる。心底腹が立ってるよ」
「……そ、れは……」

現状にケリをつけるためだったのだと説明するには、ルークの口付けが障害だった。
彼の行動に含まれた甘い―――けれどあまりに手前勝手な願望が、チハヤと向き合うためだという言葉を形にさせてくれなくて。

「……全快したらって言ったけど…もう、限界みたいだ…」

口篭るアカリの頬を、両手でやんわりと挟んで。チハヤの顔がゆっくりと近付いてくる。
青年の唇が己のそれに優しく触れて、あ、と思った時には離れていた。今しがた青年が口にした、立腹しているという言葉とは裏腹な、優しいキスだった。


「こういう、気持ちを。もう呑み込んでいたくないから。だから僕は言ったんだ、アカリ」


柔くも切ない微笑みを浮かべる秀麗な顔を間近で目にして、細い針を打ち込まれたような、ツキンとした痛みが心臓を貫く。広がりを持たないそれは強く、どこまでも深く胸に刺さった。

「…チハ…、」

ルークを想う心の一方で、この人に応えたいと思う心があるのを、アカリは確かに感じていた。

一方通行の恋慕に気付き、呆れながらも、遠回しな優しさで掬い上げてくれたのはチハヤだ。彼女が打ちのめされ、現実から目を背けていた時、真っ先に救い上げてくれたのも。


私たちは歪な歯車みたいだ。どうして、こんなにも噛み合わないんだろう。


「明日が最終日、だったんだけどね。やめとくよ。…もう、前みたいな態度は取れないから」

でもちゃんと食べるんだよ、と付け加えられて。こくりと頷いた拍子、水滴が落ちたのを引き金に、立て続けぽろぽろと雫が零れる。
それはアカリがチハヤだけに向けて流した初めての涙だった。


***


「―――」

あまりに予想外すぎる訪問者の姿に、扉を押し開けた姿のままルークは絶句した。

「今、宜しいかしら」
「は、え、いや」

都合を確認しているようで、それは上辺だけのものらしく。未だ思考回路がストップしているルークに構う様子もなく突然の訪問者―――黒髪の女性は艶やかに微笑んだ。以前であれば少なからず心が浮き足立ったそれにも、今のルークはただただ違和感を覚えるだけで。

「えー……と?」

疑問符を頭上一杯に並べる青年の、右の口角を赤く滲ませる傷跡をしっかりと確認して、その女性は微笑みを崩さないまましなやかな腕を振り上げ、素早く振り下げた。

「っ!?」

ルークの頬に向かって。

パチーンと、華奢で女性らしい掌から生み出されたとはおよそ思えない、中々に軽快な音が辺り一面に響き渡る。

「……人を叩くのって、結構痛いんですのね」
「な、な、……な……!?」
「では、ご機嫌よう」

したたかに青年の頬を打った女性は、再び絶句するルークを他所に、まるで何事もなかったかのように会釈してしずしずと立ち去っていった。たおやかな後姿を呆然と目で追っていたルークは、その姿が視界から消えたところでようやく我に返り、叫び声をあげる。


「なっ!……ん、なん…だよ……」


しかしその叫びは尻すぼみになり、弱々しく息を吐いて玄関先にへたり込んだ。

頬が熱を持ち、じんじんと痛みが増してくる。それは中々の痛みだった。鏡に映る自分の頬にくっきりと掌型の赤い跡が出来ていることを想像して、一つも面白くなどないのにルークは笑った。

「ハハ。情けねえな、俺…」

一日で二人もの女性に怒りを向けられ、挙句どちらにも何も言い返すことができない己が、心底情けないと思った。ましてやその一人は振られた相手で、もう一人は―――。

「…アカリ…」

零れた言葉が掠れていて、それは益々己の情けのなさを増長させた。

チハヤと付き合うつもりだと、確かにアカリは言った。きっとあの後も、彼女は真っ先に彼の元に向かったのだろう。涙するアカリを余裕たっぷりに慰めるチハヤの姿が容易に想像できてしまう。
それが悔しかった。今この瞬間だって悔しいと思っている。それに。

―――ずっとルークを、友達だなんて小さな枠で、見てなかったんだよ

囁くようなか細い声が、何度も耳の奥でこだまして。その度募っていくのは、あまりに今更すぎてあまりに率直な感情だった。


手放したくない、アカリを。誰にも渡したくない。


自慢ではないが、幼少時代から悪戯好きだった彼は父親であるダイの鉄槌を何度も喰らっており、肉体的な打たれ強さにはそれなりに自信があった。それにどうせ一度殴られた身だ。どちらかというと先の一発で完全に吹っ切れたと言ってもいい。

この際右頬だろうが左頬だろうが、腹だろうが背中だろうがくれてやる。

少しばかり自棄気味に決意すると、ルークは立ち上がった。

チハヤにも、殴られるかも知れない。
それでも向かわなければ、と。

何故なら自分はまだ、何一つアカリに伝えていないのだから。



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20100829:アップ