「うん、だいぶ快復したみたいですね」
「本当ですか!」

アカリの下瞼を押し、粘膜の色を確認して満足そうに告げたウォンに、少女は歓喜の声をあげた。


::: Secret Voice 07 :::


ウォンは手元のカルテにさらさらと何かを書き込みながら言葉を続ける。

「一応血液検査もしておきたいから、後で採血させてください」
「あ、はい」
「それが終わったら、今日はもう帰っていいですよ。薬も必要ないでしょう」
「判りました。ありがとうございます」

にこりと微笑んだアカリに、少しだけ逡巡して、口を開くウォン。

「…きっと、君には君の悩みが山ほどあって、食事どころじゃない時もあるんでしょう」

労わるような気配がふんだんに含まれているそれに、つい視線を落とす。脳裏に、もう長いこと姿を見ていない一人の青年の姿が浮かんだ。

「それでも、軽くでもいいので、きちんと三食摂取すること」
「……はい」
「まあ、今は有能な栄養士がついているから、もう大丈夫だとは思いますが」
「は、はい…」

今度は、まるで一人娘を世話する父親のように甲斐甲斐しい青年の姿を思い浮かべる。

けれど彼が己の世話を焼いてくれるのは、そういった親子の情愛のようなものからきているのではないということを、今のアカリは理解していた。そしてそのことに、少しずつ緩んでいる自分の心も。

「ってウォン先生、どこまでご存知なんですか…?」
「…さあ?君が倒れた日、酷く慌てて病院に駆け込んできたことしか知りませんよ?」
「そう…だったんですか」

あの日のチハヤの様子を、誰かから聞くのは初めてで、不思議な感覚が肌を走る。
むずがゆくて、けれど続きが知りたくて、促すようにウォンをじっと見つめた。しかし明らかにそれだけではない口ぶりなのに、ウォンは僅かに微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。



『君が全快したら、もう一度するから』
『何を?』
『愛の告白ってやつ』

それは今朝。チハヤが来るようになって六日目の、清々しく晴れた朝のこと。
彼特製のサラダを咀嚼していたアカリに、挨拶のようにさらりとチハヤが口にした台詞は、少女の動きを止めるに充分なもので。暫しの沈黙の後、ぎぎ、と音がしそうなほどぎこちない動作で面をあげれば、柔らかく目を細めてこちらを見つめる青年と目が合った。
そのあまりの甘さに慌ててそっぽを向いた。気を害するでもなく、くすりと笑われる気配。

アカリに気持ちを告げて以来、どことなくチハヤは彼女に甘くなった。
無愛想な口調も態度も相変わらずだったが、今のように、不意打ちで爆弾を落としてくる。
曰く、隠す必要がなくなったということらしいが、急にドキドキさせられるこちらの身にもなってほしいものだと思う。

『ど、どうして今それを言うの』
『うーん。意識しておいて欲しいから?』

アカリのカップに手際よく紅茶を注ぎ足しつつ答えるチハヤ。

『僕は別にアカリの世話人になりたいわけじゃないから』
『世話人なんて、思ってないよ…』
『そりゃあ、そういう風に仕向けたしね』

その時のことを思い出し、一人赤面するアカリに気付いたのか、チハヤがまた笑う気配を感じた。
遊ばれている気がする。むくれた表情で睨み上げれば、待ち構えていた表情は予想外に柔く、結果アカリは益々顔を赤くしてしまった。



「それじゃ、お大事にね」

インヤさんに見送られて病院を後にする。
ウォンは、明日には検査の結果が判ると教えてくれた。けれどあの口ぶりと己の体調から察するに、もう貧血症は改善されていると思って間違いはないだろう。

―――チハヤの言う“全快”は、すぐそこにある。

静かに立ち止まった。緩い風が吹きぬけ、町並みを彩る木々を揺らした。さわさわと細く届く音を耳に、瞼を伏せて、この先に向かうべきかを逡巡する。
今朝のチハヤの言葉を、先程のウォンとのやりとりを、心の中に描いた。

踏み出す、勇気を。

ぎゅっと唇を噛み締めたアカリは、先にあるものを見据えるような、どこまでも真っ直ぐな瞳を携えて。牧場へと向けていた爪先を、木工所方面へ転換した。


***


「……ルーク」

自室に響いた、たった三文字の呼びかけに。
この声を切望していたのだと気付いたのは、まるで呆気なく、アカリの声が胸に落ちたから。

顔を見て、声を聞けと、投げ掛けられたボアンの台詞が蘇る。

こういうことかよ、とルークは思った。同時に無性に悔しくもなった。
裏切られた、ずっと嗤われていたのだと、暗示のように唱えていたはずなのに。いざ彼女の声音を耳にした刹那、そんなものはすべて濯ぎ落とされてしまった。
表面を塗り固めていた雑念も嘘も払拭されて、むき出しにされた心の叫びが聞こえる。

会いたかった。
会いたかった。


ただそれだけが、身体中にガンガンと響いて鳴り止まない。


「ルーク」

もう一度、確かめるように名を呼ばれたけれど、胸が詰まりこみ上げてくるものをひた隠す青年に、とても少女の瞳を見ることなどできなくて。ベッドに寝そべり、顔を覆ったままの無様な格好で、呻くように言葉を返す。

「…んだよ」

不機嫌な、獣じみた声だった。滑らかな声の後では、そのささくれが余計に際立った。

気圧されたような躊躇いを肌で感じる。どうにかしなければと思うが、今顔を上げれば―――顔を見れば、間違いなく涙が零れるだろうという確信が、ルークの言動を厳しく制御していた。

「……ごめん」
「な、にが」

それなのに。
これ以上無様な姿をアカリに見せたくないのに。

「謝って済む、ことじゃないと判ってるけど……傷つけて、ごめん」

久方ぶりに耳にした少女の声が、どこまでも清く心に溜まるから。

「…っ、やめろよ…」

そのたび、押し出されるように零れる涙がルークの服の袖をじわりと濡らす。

謝らないでくれと言いたかった。
身包みをはがされた心の中にごろりと転がっていた、酷く醜い打算に、ずっと見ない振りを貫き通せばよかったのに。けれど今ルークはそれに目を向けてしまったから。
すべてを打ち明けようとする覚悟の篭った、アカリの真摯な声に、そうせずにはいられなかった。

「…そのままでいいから、聞いて」

小さく震えた声が、青年の鼓膜を打つ。

あるいは今すぐ立ち上がり、アカリの傍まで歩み寄って、もういいからと笑うことができれば。もしかしたら二人は以前の関係に戻れるのかも知れない。たとえそれが表面上だけだとしても。
けれどルークの身体は、ベッドに縛り付けられたようにぴくりとも動かなくて。

「私…ずっと、ずっとルークを、友達だなんて小さな枠で、見てなかったんだよ…」
「……っ」
「だけどルークは私を友達としてしか見てないの、気付いてたし、…それでも傍にいたかったから、友達でもいいやって思ってた。今はこのままでいいって」

唐突な独白に、ルークの胸がキンと鳴いた。
慣れ親しみ、聞き慣れているはずの彼女の声が、とてつもなく大きなものを背負った重さを伴って彼の胸を圧迫する。それはあの女性に贈り物を拒否された時でさえ感じることのなかった圧力で。

頼りなげな、それでいて一本芯の通った告白が、心の中にすとんと入り込んだ瞬間。
ルークはもう、観念せざるを得なくなってしまった。

「……アカ―――」
「だけど、ある時ルークが、気になる人がいるって言った」

酷く苦しそうに言って、小さく息を吐くアカリ。
己が蒔いた種だとは言え、ここまで辛そうな声を出させてしまうほど、彼女を苦しめていたのだとは知らなくて。ルークは、今しがた認めた自分の気持ちを、汚い打算を洗いざらい告げる前に、アカリの言葉を全て受け止めようと密かに決めた。

「しかもその相手が…彼女だって判った時、私……知ってたから」

何を、とは問わない。

「…知ってたのに、どっちにも相談されてたのに、どっちにも何も言えなかった。自分の立場を守ることに必死になっちゃった。その所為で…ルークの信頼を壊して、本当に……ごめんね」

幾度目かの謝罪を搾り出して、は、と勇気を補充するようにアカリは深く呼吸した。そうして、おずおずとベッドに近付いてくる気配を感じ取り、ルークは慌てて緩んでいた腕に力を込めて、目元に袖を押し付ける。涙なんて、女々しい残滓を気取られたくはなかった。


すぐ傍に佇む気配。
今度はこちらが全てを吐露する番だ。


ルークが、緩慢に腕をあげ、アカリを振り仰ごうとした時だった。

「…私、チハヤと付き合おうと思ってる」

衝撃的という表現すら不足する強い衝動が、頭の天辺から爪先まで一瞬で貫いて。
思考が停止するとは―――頭が真っ白になるとは、こういうことなのだと身をもって知った。

「今すぐ気持ちを向かせるのは…難しいかも知れないけど、それでもいいって言ってくれたから」

事情がつかめない。まさに世界に置いてけぼりを食らったような心持ちで、必死に頭を働かせようとした。けれど、アカリが一体何を示しているのか理解することを、心が拒んでいるのが判る。
徐々に掴めてきたのは、これがアカリの、ルークへの決別宣言だということ。
それから、チハヤと付き合うのだと言う台詞が嘘でも―――冗談でもなく、紛れのない本気なのだということが、じわじわとルークの思考を端から染め上げていった。

「……んな」

低く、そう呟いて。
持ち上げた腕の隙間からねめつける。

「ふざけんな…なんだよそれ」
「っ!」

金縛りにあったように動かない彼女を鋭く睨み据えたまま、ベッドから降り立ったルークは、ビクリと肩を揺らしたアカリの腕を取った。
もう、涙の痕がどうだなどと、そんなことを気にしてはいられなかった。

「ル、ルーク…痛い…、」

身を捩って拘束から抜け出そうとするアカリに詰め寄って、薄い唇を素早く奪う。

「……!」

刹那呆けていた彼女は、すぐさま我に返って青年を押し返そうとしてきた。
自由な両手が所構わずルークを叩く。まるで気にならないわけではなかったが、無視してアカリの腰を抱き込むと、反対の手を後頭部に添えてキスの角度を深くする。―――しようとした瞬間、小さくも強い痛みを感じて唇を離した。

「…つ、」
「っルークの、馬鹿…!」

非難の声が、二人だけの部屋に木霊する。それに多大な悲哀が含まれていることに気付き、ハッとして少女を見つめたのと同じタイミングで胸板を押し返されて、ルークは一歩後退した。

「…あ…」
「たっ…確かに、わた、私、ルークを凄く傷つ、けたよ…」

嗚咽交じりの途切れた声で、唇を戦慄かせながら、アカリが涙目でねめつけて来る。

「だけど、…だからって、こんなこと、されなきゃいけない理由にはならないよ!!」

叫びと同時に涙が零れる。その雫に釘付けになっていたルークは、先ほどより強く胸を押されて、またよろりと後ずさりした。できあがった隙間をすり抜け、ドアノブに手をかけた少女は、一度も青年を見返すことなくその場を駆け去っていった。

「……」

覆った唇の甘さと、押さえつけた肢体の柔らかさが、ルークのそこかしこに残っている。


「―――あつ……」


口端の傷が、ずくんと疼いた。



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20100627:アップ