力任せに掴んだ細い肩の感触が、掌にはまだ微かに残っている。
感情のまま言い募るルークに、アカリは一言も弁解しなかった。それどころか、あの女性もルークも応援していたのだと、決定付けるように彼女自身が口にした。

―――ないよ。弁解も、理由も

静謐なようでいて、どこか激情を孕んだ彼女の言葉。裏切りの宣告に等しいそれを思い出すたび、ルークの身体の中心がズクンと啼いた。

けれど彼には判らない。

この痛みの正体は、単に、友達だと思っていた人間に裏切られたからだろうか。それとも。


::: Secret Voice 06 :::


あれ以来、自室でごろごろする時間が急増した。そうなって初めて、己がどれだけアカリと行動を共にしていたか気が付いた。
この町に二人で訪れていない場所など存在しないと言っても良い程、ルークは何かをする際にはいつもごく自然に彼女の存在を思い出し、誘い出し、そして一緒にいたのだ。

「ルーク先輩、今日も不貞寝ですか。いい加減身体が鈍っちゃいますよ?」

ルークが自室に篭るようになった当初は心配していたボアンも、今では普段通りの無遠慮な物言いに戻っていた。呆れたような口調に、憮然として返す。

「不貞寝って何だよ。いーだろ別に。今日の仕事はちゃんと終わらせたんだから」
「そこで真っ直ぐ帰宅するのが、そもそもルーク先輩らしくないんですけどね…」
「……オレにだってなぁ、疲れることくらいあるっての!」
「二週間近くもですか?」

さらりと切り返してくるボアン。
元々、口達者なこの少年に口で勝とうと思う方が間違っている。

「そんなに引きずるほど疲れてるなら、いっそクリニックでウォン先生に」
「行かねえ」

ウォンという名前に、黒髪の女性のこと―――あの朝のことを思い出し、ボアンの言葉を強い口調で遮った。嘆息して肩をすくめつつも、ボアンには、もうこれ以上何も言うつもりはないようで。
壁にあつらえられた本棚まで歩いていく彼を、呆と眺めながら、ルークはふと考えた。

己などより余程、人間の感情の機微に聡いボアンならば、この痛みを何と判断するのだろう。

「なあー、ボアンー」
「何ですか?」
「お前、友達いる?」
「…いきなり人を寂しい人間みたいに言わないでください。いますよ、友達くらい」
「女友達は?」
「まあ、少しなら」

設計関係の本を数冊抜き出しながら返答するボアンに、立て続けに問う。

「じゃあ、さ。そいつと……喧嘩したことあるか?」

手に取った分厚い本の表紙を確認していた手が止まる。
そして、ゆっくりとルークに視線を寄越してきたボアンは、微苦笑を浮かべていた。

「ないことはないですけど。でも多分、その話をしても、先輩の求めている答えはありませんよ」

全てを見透かしたような返答に、暫くの沈黙を挟んで、今度はルークが溜息を吐いた。

「……お見通し、ってか」
「判りやすいんですよ、ルーク先輩は」
「オレは今、自分で自分が判んねーんだよ…」

呻くように漏らし、仰向けに寝そべったまま、両腕で顔面を覆った。
ボアンの気配を感じつつ、もうずっと抱えている疑問を、頭の中でぐるぐるとかき混ぜる。

判らない。

アカリが安心しきった表情でチハヤに笑いかけるたび、胸を焼く確かな焦燥の理由も。
樹の幹に押し付けて顔を覗き込んだあの時、瞳に張った涙を見て、憤りと同時に駆け巡った不可思議な感情の正体も。


―――黒髪の女性を話題に出せば、アカリの瞳に浮かぶ揺らぎに、酷く安堵する己の心も。


「先輩」

穏やかな声が鼓膜を打った。
緩慢に視線を巡らせれば、労わるように己を見つめる後輩と目が合って。

「顔を見て、声を聞いてください。…言葉には、出来なくても、きっとそれが唯一の答えですから」

それだけ言うと、分厚い本を抱えて静かに部屋を去るボアン。遠ざかる気配に肩の力を抜く。
いささか出来すぎた後輩の、柔らかくも厳かな言葉を耳の奥にじんじんと響かせたまま、ルークは再度顔を覆った。


***


思いがけない言葉に、思考回路が一瞬でショートした。
耳朶に感じる吐息にも、鼻先を掠める癖っ毛にも、何一つ反応を返せない。

いつの間に生じたのだろう、天井の隅にぽつりと小さなシミを見つけ、今度掃除しなきゃ、と場違いな言葉を脳裏に巡らせた丁度その時。アカリに―――体重をかけないよう―――やんわりと被さっていたチハヤが、緩慢に顔を上げた。
両脇に肘をついた体勢のまま表情を窺ってきた青年と、至近距離で視線が交わる。

真摯で、美しく、奥深い瞳だった。

混じりけのない純正の紫にいつも浮かんでいるはずの、人を馬鹿にしたような、ある意味チハヤらしい捻くれた感情の波が、アカリを見つめる今は一欠けらも含まれていない。
その瞳だけで判る。だから少女も判ってしまった。

先程の科白が、揶揄や冗談でないことが。

それを認識した瞬間、あり得ない速度で心臓が波打ち始め、循環を促進されすぎた血液は従順にアカリの頬を真っ赤に染めた。

「……おっそいなぁ」

時間にして一分半ほどだろうか。
ようやっと正しく意味を噛み砕いた少女の反応に、青年の突っ込みは相変わらず容赦がない。

「いや、え、だって、えっ…」
「でも、ま、冗談だよねって切り返さなかっただけ上出来かな」
「え、冗談?」
「なわけないだろ。都合のいい単語だけ拾わないでよ」

にべもなく言い捨てて、今度こそ上体を起こすチハヤ。

「…ああ。そうだ、忘れてた」

一人うろたえる少女を置いて。落ち着いた声音で呟いた青年は、再びキッチンに姿を消すと、水の入ったグラスを手に戻ってきた。ベッドサイドのテーブルに置かれていた白い袋を開け、錠剤のようなものを取り出してから、グラスと共にアカリに差し出す。

「ほら。先生が置いてった薬。食後三十分以内だからまだ間に合うし」
「え、あ……うん」

とりあえず、渡された薬を大人しく飲み下したアカリだが、頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
自宅だというのに、なぜこんなに居心地の悪い思いをしているのだろう。無意味に水が進む。

「えと…あ、ありがと…」

中身を全て飲み干したグラスを、ぎこちなく差し出す。次の瞬間、ククッと低い音が聞こえて顔を上げれば、拳を口元に当ててそっぽを向いたチハヤの肩が小さく震えていた。彼が声を上げて笑うなど、非常に珍しい光景だ。どうやらおずおずと青年を窺う己の姿が余程面白かったらしい。

しかし残念ながら、今のアカリに、貴重なものを見たと感動出来る余裕などなく。

むしろ次第にむくれていく彼女の表情に気付いたのか、コホッと一度咳払いをしてからチハヤは向き直ってきた。

「ああごめん。いや、まさか、ここまで態度が変わるなんて思ってなかったから」
「だって、あんなの……緊張するに決まってるでしょ」
「みたいだね。あーあ、もっと早く言っとけばよかった」
「…も、もっと早くって…」
「アカリは知らないだろうけどさ、僕の純情は結構な回数、酷いこと踏みにじられてるんだよ?」

冗談めいた口調で、冗談と一笑に付すには重い台詞をチハヤはさらりと吐いた。そのまま穏やかに自分を見下ろす青年に、少女はうまい言葉を返せない。

「…っ…」
「この件に関して言いたいことは色々あるけど……まあ、今はやめとくよ。アカリも本調子じゃないし。ああは言ったけど、本当は僕も、今日ここで言うつもりはなかったことだから」

アカリの戸惑いに気付いたチハヤが、いち早く幕を引いてくれた。無意識に強張っていた肩の力を抜き、緩く息を吐く。

しかし、続けて彼が紡いだ言葉に、彼女は折角整えようとしていた呼吸が再び乱れることになる。

「とりあえず、一週間はここに通うつもりだから」
「…えっ?」
「ボランティアなんて柄じゃないから、代金はきっちりいただくよ?代金って言っても材料費貰うだけのつもりだけど。…だったら、君んとこの作物使えばチャラだよね」
「や、だよね、じゃなくってチハヤ」
「だから僕が材料くらいは不自由なく選べるように、農作頑張ってよ」

アカリの弱い訴えを完全にスルーして、チハヤは話を進めていく。

「僕が食事の面倒を見る以上、もう栄養失調なんかで倒れさせるつもりないから」
「……うん」

静かに告げたチハヤの顔が、思いの外真剣だったからだろうか。
抗議の声をあげようとしていた少女は、しかし、異論を唱えることなど出来ないまま、こくりと一度頷くだけだった。



BACK | NOVEL | NEXT

20100615:アップ