あれから何日経っているのか、既にアカリには判らなかった。 ルークの失望した表情や、搾り出すような声を思い出すと、悲しさと苦しさで胸が押し潰されそうになる。だから少女は極力感情を動かさず、息を潜めて毎日を過ごした。 流れ作業のように、淡々と世話をすることが、作物や動物達にいい影響を与えるはずもない。 言葉の通じない命だが、注意深く見れば人間よりも余程雄弁だった。作物の葉の端が枯れ、動物達の瞳には、アカリに対する不審感が蓄積されていく。 収穫したばかりの果物の表面を服の袖で拭って、小さく齧った。 何かのサンプルのようにやる気のない、ただ甘いだけの果汁がじわりと口の中に広がる。 「……おいしくない」 次第に壊れゆく牧場を見渡しながら、これが、己に相応しい罰なのだと思った。 ::: Secret Voice 05 :::町のどこを出歩いても、彼と過ごした思い出のある場所ばかりで。差し掛かるたびにピタリと足を止めてしまう己に嫌気が差したアカリは、すぐに、外出することすら控えるようになった。 今まで、収入を優先して殆どの作物を出荷していたため、食材の貯えはあまりない。けれど元より食欲らしい食欲が湧かない彼女は、それで特に困るということもなかった。作物を収穫する際に、果物や生で食せる野菜をついでのように口にねじ込んで、無理矢理飲み下す食事が続いた。 農作業と酪農という重労働に、そんな風に痛めつけられた身体で耐えられるはずがない。アカリの肉体はかなり早い段階で眩暈や立ち眩みを起こし、異常を彼女に訴えていた。 しかし彼女は、日を追うごとに重く鈍くなる身体を引きずりながら牧場の仕事をこなし、また自宅に篭るだけで、決して医者にかかろうとはしなかった。 その日も、緩慢な動作で、のろのろと水遣りを終えたアカリが、踵を返した瞬間視界が揺れた。 「…っ」 倒れそうになるのを、咄嗟に家の壁に手を着いて留めた。そのままの姿勢で目を瞑ってじっと耐えると、頭の中枢をかき回されるような不快感が少しずつ薄れていく。ある程度治まったところで、アカリはそっと目を開けた。 このままでは駄目だと、頭では判っている。 今まで必死で、がむしゃらに築いてきたアカリの楽園。決して少なくはない数の命が息づいている牧場は、命そのものだ。けれど今やそれらが端から少しずつ死んでいっている。 他でもない楽園の主の所為で。 きちんと物を食べ、夜は眠り、自らの心身を健康に保つこと。そして、楽園に住まうものたちに惜しみない愛を注ぐこと。これは単なる職業ではなく、主となった者の定めなのだ。―――それなのに。 実体のない、けれど圧倒的な存在感のある何かが、アカリの感情に固く蓋をする。 己の身体が叫んでいることも。大切な牧場が歪んでいることも。頭では理解出来るのに、肌で感じることが出来ない。心の一番大切な部分がすっかり凍えてしまったかのようだ。 紛れもなく己の身に起きていることなのに、全てをどこか他人事のように見ていた。 肉体の悲鳴をやり過ごし、ゆっくりと壁から手を離したアカリは、覚束無い足取りでジョウロやカマなどの農具を玄関先の道具箱に仕舞っていく。 今ではもう、急に動けば立ち眩むことを、経験として知っていた。だから決して急かないように、極めてゆっくりと行動した。 けれど、そんなごまかしも、いよいよ限界に達したようだ。 「―――あ」 また、眩暈。今度は寄りかかれるようなものも、掴めそうなものも周囲にはなかった。必然的にアカリは、大きく口を開いたままの道具箱に、頭から倒れ込んでいく。 先程仕舞ったカマの鈍色に光る切っ先が、みるみる視界に迫ってきて。 痛いのは嫌だと、頭の片隅で叫んだけれど、もう抗う力は残っていなかった。 「っ何してるんだよ!!」 聞き慣れた、けれど懐かしい声がすると思ったのが先か。 背後から回った何かに肩を抱き寄せられたのが先か。 逼迫した声と同時にぐいと上半身が引かれ、目の前からカマが遠ざかっていく。直撃を免れたのだと、それだけを認識出来た刹那、糸が切れたように全身の力が抜けたアカリは意識を手放した。 水が流れている。それから食器が触れ合うような硬い音。 まるで言うことを聞く気のない重い瞼を、何とか半分ほど持ち上げて、焦点の合わないぼやけた世界を呆と見つめる。そのままじっとしていたアカリの、全てが二重にも三重にも見える視界に突如、ぬっと肌色の何かが入り込んだ。 「っ」 ビシッという小気味良い音と共に、額の中央に突くような痛みが走る。 「―――本当にさ、…ふざけないでくれる?」 痛みの正体を探るより早く、少女に降りかかってきたのは極めて静かな声だった。にも関わらず、それに含まれた膨大な怒りは、朦朧とした意識でも充分に感じるほどで。 アカリはゆっくりと首を巡らせて、腕組みをしてこちらを見下ろす青年の名を呼んだ。 「……チハヤ…」 「全っ然足りないけど、一発で勘弁しといてあげるよ。…ドクターストップもかかってるしね」 爪先を親指の腹につけるように丸めた右の中指を、ビシ、と空に向かって弾きながら、憮然とした表情でチハヤは言う。つまり先程の一撃はデコピンだったらしい。 ようやっと焦点の定まってきた目を、緩慢に何度か瞬いて、身を起こそうとする。ぐらりと世界が歪むのと同時、青年のしなやかな腕が、少女を押し留めるように伸ばされた。 「寝てなよ」 「…平気、だよ…」 「一目見ただけで医者に入院言い渡されるような顔色の人間が何言ってるの」 「……言われた記憶、ない」 「それはそうでしょ。意識失ってたんだから」 やんわり肩にかけられた大きな掌を退けようと、小さく身を捩るアカリ。その様子を一瞥して、チハヤは呆れたように嘆息した。 「…ほんっと君って、強情って言うか、無駄に意固地って言うか」 あっさりアカリの肩から手を外すと、キッチンに消えていく。四苦八苦して上半身を起こしたアカリが、ようやっと一息ついた時、キッチンから姿を現したチハヤの手には小さな鍋があった。 「どうしても起きるって言うなら、まずこれ食べて」 ベッドサイドのテーブルをアカリの傍まで引き寄せて、鍋と食器を手早く並べるチハヤ。蓋を開けた鍋からはホカホカと湯気が立ち昇り、二人の鼻腔をくすぐる。 碗によそった粥を目の前まで差し出されて、アカリは微かに眉を寄せた。 「…いらない…」 「言うと思った。けど却下ね」 にべもなく切り捨て、アカリの手に碗を無理矢理持たせながら、青年は淡々と続ける。 「ちなみに君が入院を免れたのは、君にちゃんと食事させるって先生と約束したからなんだよね」 「……」 「何なら、今からでも病院に行くかい?」 「…た、食べる…っ」 すっくと立ち上がり、扉へ向かいかけたチハヤの背に、アカリは慌てて白旗宣言をした。 まるで彼女の反応を想定していたように、すんなりベッドサイドに戻ってきた青年は、渋々匙を握り締める少女を見下ろして、はぁ、と短く息を吐く。 「…言っとくけど、今日僕は実力行使も辞さないつもりだから。手を焼かせないでよ」 厳しい言葉を浴びながら、口元まで運んだ匙の先を、申し訳程度に含んだ。そして、微かに目を瞠る。 「…」 久方ぶりに温度のあるものを摂取して、肩の力が抜けていくのが判った。温もりは口中を一瞬にして充たし、そのまま全身に沁みるように広がった。 薄味の出汁と、米の仄かな甘みが、張り詰めていたアカリの気を少しずつ和らげていく。 「…熱かったら調節して。一応冷ましたから、大丈夫だと思うけど」 「…熱く…ないよ」 不意にもたらされた優しさに、つと、涙が零れそうになった。 ―――何で、お前が泣くんだよ。 その瞬間、掠れた声を思い出した。射抜くような鋭い瞳。 いつも快活で朗らかなルークに、そんな目で見られたのは初めてのことだった。 「……おいしい、すごく…」 搾り出すように言って、ぐ、と唇を噛み締める。 涙の滲んだ瞳を何度も瞬いて、アカリはとうとう、それを流さないことに成功した。気を抜けばわなないてしまいそうな口に、ぐっと匙を押し込んでは、チハヤの粥の味を感じることに努める。 「…ゆっくりでいいから、ちゃんと噛んで食べなよ」 「……ん、うん。…おいし…」 「当然」 「あり、がと…」 チハヤは、彼には珍しく労わるような視線を投げ掛けて、アカリの頭にそっと手を載せてきた。 どうにか碗一杯分の粥を食べ切り、アカリは再び横になった。 キッチンから細く漏れていた、水の流れる音が止んだ。チハヤが食器を洗い終えたのだろう。 「残り、鍋に入ったままだから。夕飯の時に温めて食べなよ」 「うん。ありがとう」 エプロンで手を拭いながらキッチンから出てきた青年に、素直に少女は礼を言う。軽く頷いた彼の挙動を何ともなしに目で追っていたアカリは、すたすたとベッドサイドに歩み寄り、傍らの椅子に腰掛けたチハヤに驚き、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。 「…何?」 「え?あ、ううん」 それはこちらの台詞なのではと思いながら、戸惑ったように首を振る。アカリが驚いた理由は、彼女がきちんと食事をした今、彼は帰るのだろうと、当然のように思っていたからだ。 聡い青年のことだ。口には出さない少女の疑問に、気が付いていないはずはない。けれどチハヤはそれ以上追及せず、テーブルに積んであった牧場経営についての本を一冊手に取ると、パラパラとページを捲り始めた。 「―――もう、やめたら?」 困惑を隠し、とりあえず寝てしまおうと目を瞑った少女の耳に、その言葉は真っ直ぐに届いた。 ぱ、と目を開けてチハヤを見つめれば、彼もまたアカリを見下ろしていた。視線がかち合っても、紫色の瞳は少しも揺らがない。 暫くの沈黙の後、囁くように問うた。 「……やめるって、何を」 「牧場も、ルークも」 「…言ってる意味が判らないよ」 「ルークの所為で牧場に手が回らなくなるくらいなら、牧場もルークもやめてしまえってこと」 「…っ」 「アカリが寝てる間に畑を見せてもらったけど……君、あんなもの出荷するつもり?流石に動物小屋までは入ってないけどさ。でも、どういう状態かなんて粗方想像はつくよ」 チハヤの言葉に、痛いところを正面からえぐられた気分だった。 この青年は、己に厳しく他人にも厳しい、プロ意識の高い人間だ。 駆け出しではあるものの、仮にも牧場経営を主としているアカリが、高々恋愛沙汰―――彼にしてみれば高々程度のもの―――に乱され、それを疎かにしてしまっていることに、苦言を呈しているのだろう。 「…やっぱり、気付くよね」 「当たり前でしょ。あれじゃ、僕じゃなくたって気付くさ」 「…そ…だよね…」 素人目にも酷く映ると断言された瞬間、今日まで肌で感じることが出来なかった楽園の崩壊を、アカリは初めて現実として受け止めた。凍り付いていた心を少しだけ解かされた今、ようやっと受け止めることが出来た。 けれど、本当は、もっと早く受け止めなければならなかった。 牧場は命の集まりだ。決して彼女の気分や精神状態で、それらの命が脅かされ、左右されるようなことがあってはならないのに。どのような理由があれ、アカリは牧場を放棄していた。 言葉は厳しいが、チハヤは今、それを真正面から教えてくれたのだ。 己の情けなさを恥じて、頭まですっぽりと布団を被ったアカリは、それでも搾り出すように告げた。 「……やめたくない」 「…どっちを?」 どっちも。紡ごうとして、音にはならなかった。 目を伏せる。ルークの鋭い視線が瞼の裏に蘇り、ずくずくと胸は激しく痛んだ。 けれど逃げては駄目だ。布団の中でぎゅっと心臓を押さえながら思う。 こんな痛みよりはるかに深く鋭く、己はルークを傷つけてしまった。 どちらにも笑顔を振りまいて。どちらにも頑張れと声をかけて。上っ面をごまかしながら、ルークに気持ちが露見することを何より恐れていた、卑怯で、愚かで、浅ましい自身の行動。 「…チハヤの言ったことは正しかったね」 「牧場をあんな有様にしといて、正しくないって言われてもね」 「違うの。今の話だけじゃなくて―――前に、酒場で喧嘩しちゃった時」 「……覚えてたの」 意外そうなチハヤの言葉に、もそもそと布団から顔を出して、忘れるわけないよ、と小さく呟く。 嘲りの笑みと共に吐き出された一言はあまりに的確すぎて、傷さえ残さないほど素早く確実に、アカリの心を貫いていったのだから。 「…あれはさ、」 言いながら、弄んでいた本をテーブルに戻して、静かに立ち上がるチハヤ。 「君達に苛々してたのも本当だけど。まあ、ちょっと八つ当たりしたところもあったから」 「八つ当たり?」 「そ。…本当は、アカリも僕も大した差はないんだよ。だから君がグジグジしてるの見てたら、自分も同じだってこと見せ付けられてるような気がして……恥ずかしかったし、腹が立った」 「同じ?チハヤが?どういうい、み……」 複雑なパズルのように難解な言葉を、ただただ反芻していた少女の言葉が止まる。ぎしりとベッドを軋ませて、端に腰掛けた青年が、そのまま上半身を捻って覆い被さってきたからだ。 「でも、もうやめる。僕は一抜けさせてもらうことにする」 決然と述べて、身を硬直させるアカリの耳を露にすると、薄い唇を寄せてチハヤは囁いた。 「―――だからアカリも、ルークなんかやめて、僕を選びなよ」 BACK | NOVEL | NEXT 20100314:アップ |