カラン、と扉のベルがなった時、ついそちらを見てしまう自分にチハヤは小さく舌打ちした。 嫌になる。これで何度目だろう。扉が揺れるたび、客の姿を確かめている。 プラリネの森でアカリを見つけ、送り届けてから十日が経った。 彼女は今日も、酒場に来ない。 ::: Secret Voice 04 :::騒がしい酒場の一角では、珍しく、島の若い女性が顔を揃えていた。ただし、アカリ以外の、という注釈がつく。 一番奥まった席に座った黒髪の女性を中心に、きゃぴきゃぴと言葉を交わす女性達。なんとウェイトレスのキャシーまでもがちゃっかり椅子に腰掛けて、彼女らの談笑に混ざっていた。 この忙しいのに、と言いたげな視線に気付いたのか、ハーパーが渋い声でフォローを入れる。 「…めでたい報告があるからな。今だけ許してやってくれ」 「めでたい報告?」 反射のように問うと、筋肉質なバーの店長はこくりと頷いた。 「結婚するそうだ」 続けて紡がれた名には聞き覚えがあった。覚えがあるどころか、今チハヤの憂慮事項の筆頭にあがる少女―――アカリと、彼女の友人ルークの亀裂に、大いに関わっているであろうと推測される人物だ。 フライパンを軽やかな手つきで返して、チハヤは再度、ちらりとその集団に目を向けた。次々と話しかけてくる友人に、にこやかに微笑みながら返答している黒髪の女性。 「…結婚、ねえ…」 オリーブオイルと野菜を絡めながら、あの時のアカリの様子を思い返してみる。 チハヤに手を引かれて家に到着するまでの間、彼女は一言も喋らなかった。時々振り返る青年の視線に気付いていないのか、はたまた気付いていながら気にかけていないのか、まるで出来の悪いロボットのように無機質に、事務的に足を動かしていただけ。 家の前で立ち止まり、チハヤが向き直っても、追従して停止したアカリは手を離すでも声を発するでもなく、どこか呆然と彼の足元を見つめていた。 胸の底がざわつくような苛立ちを抑え、端的に言う。 『着いたよ』 のろのろと首を持ち上げたアカリは、じっと傍らの建物を見つめて。数秒後、ようやっとそれが自分の家であるという思考に至ったのか、動作と同じくらい緩慢に呟いた。 『……ほんとうだ…』 『ちょっと待った』 そのまま、礼を言うでもなく、ふらふらと玄関に向かう少女の腕を、青年はくっと引き寄せた。 元より全ての所作に力など篭っていない身体は、あっさりとチハヤの隣まで舞い戻る。ぼんやりとこちらを見上げるだけの彼女に、舌打ちしたい衝動をどうにか堪える。 『別に今日来いとは言わないけど……店、来なよ?』 『おみせ…?』 『アカリが来なくて売り上げ落ちたら、文句言われるの僕なんだから』 アカリ達、という表現は、敢えて避けた。 ルークのことで頭が一杯な目前の少女が腹立たしくないと言えば嘘になる。けれど、磨耗しきった彼女の傷口に、塩を塗りこむような真似をしないだけの分別は持っているつもりだ。 それに、この様子では、食事すらまともに摂りそうにない。 不本意ながら、己の言葉では効果は薄そうだが、それでも彼なりに、抱え込むな引きこもるなという牽制を与えたのだ。 しかしながらあれ以来、アカリは店に姿を見せていない。 「こうもさっぱり効果ナシ、とはね」 完成した料理を大皿に盛り付けながら零す。ここまであからさまだと、空しさや悔しさを通り越して逆に清々しささえ感じる。 チハヤの小さな呟きを耳聡く拾ったハーパーが、僅かに首を傾ける。曖昧な笑顔を返して、彼は湯気のあがる大皿と注文されていたドリンクを手に、女性陣の集うテーブルに近寄った。音を立てないよう注意して、テーブルの中央に大皿とドリンクを置く。 「お待ちどうさま」 「あっ!チハヤ待って!いいところにっ」 踵を返しかけた彼のエプロンを掴んで引き止めたのは、既に出来上がりつつあるマイだった。 「…何さ」 女性の間に割って入り、いいところに来たと言われる場合、それがこちらにとっていい話題であったことなど殆どない。過去の経験からそれが身に沁みているチハヤは、顰めた眉を取り繕おうともせず、うんざりした表情でマイを見下ろした。 「しょうもない話なら後にしてくれる?ただでさえウェイトレスがさぼってて忙しいんだから」 「うわっ!耳痛いっ!」 彼の言葉が厭味であることを分かりつつ、キャシーがからからと笑う。 笑い事じゃないと内心チハヤは毒づいたが、彼の耳に、宿屋の娘の言葉が届いた瞬間、そんなことはどうでもよくなってしまった。 「もうっ。聞く前から決めないでよー!アカリが来ないのは、チハヤだって関係あるんだからねっ」 恨めしそうにこちらを見上げるマイ。気付いてみれば、そこにいる全ての視線が彼に向けられていた。どうやら、チハヤとアカリが揉めたことは既に周知されているらしかった。 やはり少しも快い話題にはなりそうにない。 瞬時に悟り、マイに掴まれたエプロンの端を奪回すると、心底気だるそうにチハヤは向き直った。 「それって僕がアカリを泣かせた話?」 「判ってるなら仲直りしてよっ!アカリが宿に来なくなっちゃったじゃん」 「でもマイ、あの時の話の内容知らないだろ」 「うっ。それは…」 「見てもないのに、思い込みで加害者にされるのは迷惑なんだけど」 「でっ、ででっ、でも…っ」 萎んでいくマイの援護をしたのは、隣に座っているパットだった。 「しかし、あのアカリが泣いていたのだから、余程キツいことを言ったのではないか?」 「あーそれはアタシも思うね。アタシ、アンタのずっぱりきっぱりしてるとこ嫌いじゃないけど、時々言葉が猛烈に辛辣だしねー」 「…はあ……、もうそれでいいよ」 キャシーにまで言い募られ、チハヤは反論を早々に諦めた。 多勢に無勢というやつだ。 どうやら彼女達の間では、今日の集まりにアカリが参加しなかったことと先日の揉め事がしっかりとイコールで紐付けられているらしい。 けれど違う。アカリの状態を目にしているチハヤには、それがはっきりと判っていた。 彼女がここに来ないのは、彼との諍いを気にしているからではない。考えるのすら悔しい内容だが、あの様子では、彼女は青年と言い争ったことすら忘れている確立が高い。 しかし、十日前の朝のことを、チハヤは誰にも話すつもりはなかった。 「…ま、どうしようもなく手が空いて、もしも気が向いたら、そのうち牧場に行くかもね」 「もしも、でも、かも、でも駄目なんだよーっ!」 「うるさいなあ…」 じたじたと手を振り回すマイを呆れて見やったその時、ふと気付く。奥まった席で一人だけ、微かに暗い表情をしているその人に。 実のところアカリとルークの間に何があったのか一切聞いていないチハヤだったが、その人 の表情に、自分の推測があながち外れというわけではなさそうだと確信した。 「じゃあ、お先に失礼します」 閉店後の店を片付け、暇を告げて、自宅へと向かうチハヤ。歩きながら首や腕をぐるりとまわして、こわばりきった筋肉をほぐす。 料理人という仕事はかなりハードだ。 しかも彼の場合、料理と接客を並行しているため、一日中立ちっぱなしの動きっぱなしだった。 等間隔で街灯の灯る夜道を、やや重たい足取りで歩んでいたチハヤは、一つの街頭の下に人影を見つけて足を止める。 「…こんばんは。お疲れ様です」 「こんばんは。…何してるんですか、こんな暗い中」 明らかに己を待っていたという風に声をかけてくる人物―――黒髪の女性に眉を寄せ、咎めた。 しかしその女性は、切れ長の瞳を細めてくすりと笑う。 「大丈夫ですわ。それに先程まで、ウォン先生の家で待たせていただいておりましたの」 言われて彼女の背後を見やればウォンの自宅からは光が漏れており、そして彼の家は、チハヤのそれの目と鼻の先にあった。 別段それ以上の興味もないチハヤは、ああなるほどと返答して女性の顔に視線を戻す。 アカリの来店の有無に神経を尖らせていたことや、酔いどれの女性陣に不当に絡まれたこともあり、今日はいつもより疲れていた。ここで突っ立って、彼女と回りくどい問答をするつもりはさらさらない。単刀直入にチハヤは言う。 「…アカリのことなら、僕は何も知りませんよ」 はっきりと告げると、黒髪の女性は微かに目を見開き、そして少しだけ困ったように微笑んだ。 「チハヤさんの所為だなんて思っていませんわ。―――それに、種を蒔いたのは私ですから」 「種?」 「……あなたもご存知なのでしょう?」 「何のことですか」 ルークと女性のことに関してという意味であれば、全く知らないと言えば嘘になる。けれど女性が示すものが何かをはっきりさせないまま、不用意に発言するのは利口ではない。 微かに張り詰めた空気を揺らすように、柔らかな風が二人の間を抜ける。 「私がルークさんをお断りしたこと」 「…知ってます」 「そしてその翌日、ルークさんの前で、アカリさんにウォン先生との結婚を告げたこと」 それは知らなかった。彼女が口にしたのは、あの朝の出来事だと思って間違いはないだろう。 しかしチハヤは違和感を覚えた。女性がウォンを選んだ。そこに、アカリの咎はないはずだ。 それなのに、ただそれだけのことにルークが逆上するだろうか。少女をあれ程まで手荒に―――あくまで推測だが、ただ事ではない格好だった―――扱ったりするだろうか。 眉を顰めて思考するチハヤに、女性は微苦笑を浮かべて呟く。 「本当にそれだけか、と言いたげな表情ですわね」 「まあ、確かに。それだけじゃ説明の付かないことはありますね」 淡々と肯定すれば、少しの間じっとこちらを見つめていた黒い瞳が、不意に伏せられた。 「…その時言いましたの」 刹那突き抜けた突風が、二人の髪と服を凄い勢いで乱した。 行く先を追うように、風の去った高い空を見上げて。耳元の黒髪を細い指で整えながら、その人は静かに紡いだ。 「アカリさんが、ずっと私の相談に乗ってくださっていたことも」 ―――卑怯で、愚かな奴。 チハヤがそう言い放った時。 目を見開いたまま、一言も反論しなかったアカリの顔が脳裏をちらついた。 「…あの、馬鹿」 女性そっちのけで、額を押さえたチハヤは小さく悪態を吐く。 アカリとルークの確執については何となく合点がいき、短く嘆息して女性に向き直った。彼女はもう微笑んでなどいなかった。 「何でそんなことを僕に話すんです?」 「あなたはきっと近いうち、アカリさんのところへ行くと思いましたの」 「…僕は、自分のことを、知ったように他人に語られるのは嫌いです。アカリが気になるなら自分で行けばいい。もし仲介でも頼むつもりだったんなら、今ここではっきりノーと言わせてもらいますけど」 「そのつもりはありませんわ。これでも私、アカリさんに怒ってますのよ?」 小首を傾けて、何でもないことのようにさらりとその人は言った。 「私にくださった頑張ってという言葉を、ルークさんにも言っていたのなら……密かに彼女を応援していた私は、とても滑稽ですわ」 やはり目の前の女性も、アカリがひた隠しにしているつもりの想いには、とうに気付いていたらしい。恐らく、チハヤの気持ちにも。 穏やかで線が細く、どちらかと言わずともか弱そうに見えるこの女性が、中々の芯の持ち主であることはもう充分に気付いている。チハヤは取り繕うのをやめた。 「……もし、あなたが僕に何らかの気持ちを勝手に見出して、その上でこうやって、僕を焚き付けてるんだとしたら。今やってることは、アカリがあなたにしたことと何も変わらない」 「…本当にそうかしら」 青年の強い語気にも怯まず、女性は切り返してくる。 「私の姿を見た瞬間、迷わずアカリさんの話を持ち出したチハヤさんの表情を見たその時に、もう、私の中では決まってしまったのですけれど」 「…別に、僕は、他人の肯定なんて求めてないよ」 「ええ。判ってますわ」 さわさわと細い風がチハヤの、女性の頬を撫でて、訪れるであろう何かの予兆を感じさせる。 「あなたはあなたの形で、アカリさんを――――――のでしょう?」 再び二人を弄んだ一陣の強風は、女性の言葉の一部と、青年の吐息をさらって。 少女が住まう牧場目掛けて、真っ直ぐに抜けていった。 BACK | NOVEL | NEXT 20100307:アップ |