アカリを無視するために来たのかとチハヤに罵られて、ルークの頭にまず浮かんだ言葉は、そんなわけあるか、だった。
気が晴れると。顔を見たらきっと荒れた心が落ち着くと。思ったから、だから探した。

自宅のドアを叩いて、反応がなくて、呆然とする頭でも彼女を探して、アカリの行きそうなところを、脳裏にめぐらせて。その姿をキルシュ亭に見つけた時は安堵した。けれどすぐ、当然のように傍らにあるチハヤの姿を目に背筋が強張った。

どうしてかなんて判らない。けれど多分これは、声に出してはいけないこと。


::: Secret Voice 03 :::


彼に珍しく、思い悩み寝付けなかった昨夜。
目をこすりながら、いつもより遅く、斧を担いでプラリネの森へ向かったルークは歩みを止めた。

「…、…おはよう、ございます」
「…あー、っと。…どうも」

昨日青年の気持ちを突き返した、黒髪の女性がハーブを摘んでいるところだった。刹那逡巡するが、自分の職場なのだから仕方がないと腹を括ったルークも挨拶して森へ立ち入った。
いつもならアカリがいてもいい時間なのに、今日に限って牧場主の姿はここにない。

気まずい雰囲気を肌で感じながら作業に移る。しかし、一度幹に斧を叩きつけてしまえば、身体に馴染んだ振動はたちまちルークを没頭させてくれた。

「…」

額に浮かび始めた汗を無言で拭い、斧の柄をしっかりと握りなおす。

こうやって、無心に斧を振るっている朝。
今日のように、時折森を訪れては森の恵みをいただくこの人の、木漏れ日を流すつややかな黒髪がいいと思って。その様を、そっと覗き見るのが好きだった。
ハーブや草花を摘む手の優しさから、どこまでも自然を愛し、慈しんでいる様子が見て取れて、益々ルークはこの女性を気にするようになった。

惹かれていた、んだろう。それは確かなことだと言える。

だからみっともなく胸を騒がせたし、昨日のことがあるまでは、こうしてさり気なく同じ空間を共有出来る時を楽しみにしていた。だけれども。


「…手、止まってるよ」
「うあ!?」

いきなりの声に、ルークは情けない声をあげて振り返る。見やった先、瞠目して何度も瞬いていたアカリは、その後に申し訳なさそうな表情になった。

「ゴメン。もしかして精神統一中だった?」

ルークと言えば、昨夜の宿での一件をまるで無かったように振舞ってくれるアカリに、どう反応を返せばよいか分からず口篭っていた。いたのだが、殊勝な彼女の言葉には、彼のほうが申し訳なくなってしまった。

「いや。全然……てかむしろ雑念、ばっかりだった」
「そっか」

一瞬だけ暗い表情になった、気がしたアカリは、それ以上を追求してこない。目前の少女はいつだって、青年との距離のとり方に長けている。どこか強張っていた肩から、ふっと力を抜くルーク。そこでようやく、黒髪の女性もその場にいたことを思い出す。

「アカリさん、おはようございます」
「え。あ!おはよう」

数本の木立の向こうで採取していたため、死角になっていたのだろう。初めて気付いた様子でアカリは慌てて挨拶をする。同時にルークに対して、邪魔して申し訳ないという目配せを送ってきた。

「少し奥のほうに、ベリーベリーが沢山生っていましたよ」
「本当?じゃあ、後で摘みに行くね。ありがとう」
「お気になさらないで。ああ、それからタイムが…」

突然に始まった女性達の語らいに、混じれるわけもないルークは気まずくポリポリと後頭部を掻いた。一度アカリに向き直ってしまったために、作業に戻るきっかけも失っていた。
ルークが居心地悪そうな様子であることを、アカリは気付いているのだろう。黒髪の女性との話を進めながら、どこかで方向を変えられるよう気遣ってくれているのを感じる。

「あ、あのね」
「それから、ウォン先生とのことなのですけれど」

形よい唇から零れた名に、ぴたり、ルークの手が止まった。

傍目に分かるほど焦りの表情を浮かべ、黒髪の女性にぎこちなく笑うアカリ。

「あっ!その話はまた、後でゆっくり聞かせてよ。せっかくだし。女同士で…」
「いいえ、聞いてください。…この度、結婚することになりました」

息を詰まらせるルーク。その微かな音を耳聡く捉えたのか、アカリが細く小さく、待って、と呟く。しかし、黒髪の女性は言葉を留めず、切れ長の瞳は真っ直ぐに彼女を射抜いていた。

「アカリさんには、いつもご相談に乗っていただいておりましたので―――いち早く報告したくて」


ルークは、今度こそはっきりと息を呑んだ。それは、アカリの鼓膜を確かに振るわせた。


「式は一月後を予定しておりますの。是非来てくださいね」

無表情で立ち尽くすルークと、顔面を蒼白にしているアカリに、女性はゆったりと美しい微笑みを投げかけて。何の反応も無い二人に小さく会釈をすると、しずしずとその場を去っていった。
彼女の艶やかな黒髪が、凛とした後姿が、もうこの場から完全に見えなくなっても、暫くの間ずっと二人は無言だった。

打ち破ったのは、青年の硬質な声。

「……う……だよ…」

自分でも笑えるくらいに、強張り切った声音だった。
心を、思い切り貫かれたような痛みが走る。けれどこれはあの女性が結婚するという事実に対してではなく―――どういうことだよ、と再度ルークは言った。
彼の問いに対して無言でいるアカリに、目の前が真っ赤になる。

「なあ!?どういうことだって訊いてんだよ!!」
「……っ!!」

気が付けばアカリの肩を鷲掴みにしていた。

「相談って何だよ!」
「ごめん…」
「あの人に恋人がいること、知ってたんだな!?」
「…ごめん……っ!」

乱暴に掴んだ華奢な両肩をぐいぐいと森の奥へ押しやる。抗えず、強制的に後退させられている彼女の足がもつれた。ルークはもう焦れったくなって、彼女を持ち上げると手近な樹木の幹に押し付けた。強く背中を打ったアカリが咳き込む。

けれど加減なんてしてやれなかった。


「……笑ってたんだろ……?」


ルークが、黒髪の女性への想いを口にする度に。
アカリの家で、夜の酒場で、相談を持ちかける度に。

「お前、どうせ無駄なのにって心の中で笑ってたんだろ…!?」
「…ち、が…」
「何が違うんだよ!そういうことじゃねえか!!」
「、ち…違うっ…!」

少女は自らの両手を顔に押し当て、そう叫びながら何度も首を振った。

「……なら、弁解してみろよ」
「…めん……ごめん…ごめん、っごめ……」
「謝って欲しいんじゃねえよ―――理由を聞かせろって言ってんだ!」

こちらの瞳を見ようとしないアカリに益々苛立ちを募らせ、肩と同じく華奢な手首を掴むと、強引に引き剥がした。片手でまとめてアカリの頭上に縫い付ける。
俯いたままの顔を、もう片方の手で上向かせようとした時、初めて抵抗を見せた。

「っ……やだ…」
「知るか」

何度も顔を背けて逃れようとしていた彼女の頤を、容赦なく捉えて向き合わせた。
特徴的な猫目に、うっすらと水の膜が張っているのを目にして、ルークは瞠目する。けれどすぐに顔を顰めた。

「ふざけんなよ……何で、お前が泣くんだよ」
「…泣いて、ない」
「今にも泣き出しそうじゃねえか!何なんだよお前!……泣きたいのはこっちだ…!!」

ぎりりと力を込めて両手首を幹に押し付けた。相当な痛みを伴うだろうに、アカリは決して痛いと言わない。
一度歯を食いしばり、それから、覚悟を決めたように変化した真っ直ぐな瞳が、今度はしっかりとルークを見上げてきた。

「っ…ないよ。弁解も、理由も…ない」

再度目を見開くルーク。アカリが紡いだのは、完全に、想定外の言葉だった。

「ルークを馬鹿にしても、嘲笑ってもいないけれど。わたしはあの人の気持ちも、ルークの気持ちも知ってて、それで、……その上で両方の話を聞いてた。それが本当のこと」

脳を直接殴打されるような衝撃を、呆然とした意識の底で、確かにルークは感じていた。

あの女性が気になると打ち明けたのはアカリだけだったし、それによりもたらされるあの人の情報をルークは逐一信じた。何が好きなのだろう、何をすれば気に留めてもらえるだろうかと、今思えば女々しい相談にも、彼女は親身に考えて答えをくれた。
本当に、信頼していたのだ。目前の少女をずっと。ずっと。

「……それで、全部か」

心ここにあらずといった声で、呆と、問う。

「アカリが、言いたいこと。オレに知ってて欲しいこと。それで全部かよ…」
「……うん」

あるいはこの時、もしルークが一度でもしっかりとアカリの表情を瞳に映し出していたならば、彼女の面に漂う狂おしいまでの激情の欠片に気付いていたかも知れなかった。
けれどアカリは一瞬で切なげな表情を打ち消して、念を押すように呟くから。

「これだけだよ―――ルークに知っていて欲しいことは」

追い打つようにそう言うから。

青年の腕は脱力し、少女の手首が拘束からずるりと抜け出した。ルークに縫いとめられたところを支えにしていたアカリはそのまま地に座り込み、俯いて、それきり何も言わなくなった。


***


ベリーベリーを摘みにプラリネの森を訪れたチハヤは、先客がいることに気付いた。しかし可笑しなことにその先客は、森の奥、彫像のように座り込んでぴくりとも動かない。

「…何してるの」

抑揚の無い声で呼びかける。
緩慢な動作でこちらを見やったアカリとは、確かに目が合ったはずだ。それなのに彼女はチハヤの存在など気にも留めていない様子で、問いに答えることもなく、再度緩慢にその首を俯けた。
朝の木漏れ日に溢れている森の中で、少女の周りだけが陰鬱な空気を含んで揺れている。

「聞こえてる?」

無遠慮にアカリに近づきながら、再度訊ねた。
けれどやはり返答はない。

「…僕、無視されるのが一番嫌いなんだけど…」

言いながら、彼女の傍にしゃがみ―――何かに気付いたようにチハヤは眉目を歪めた。

細い手首には赤い痕。
手の甲は擦り切れて、じんわりと血が滲んでいる。
もっと見れば背中も汚れて、木の皮のようなささくれたものがまばらに付着していた。

青年の顔から血の気が引く。

「……アカリ、これ」

ベリーベリーを入れるために持ってきていた籠を横へ放り、チハヤはそっと目前の肩に触れた。途端に、今まで反応のなかったアカリがびくんと身体を震わせてこちらを見上げてくる。
僅かに塗れた瞳は、今度こそはっきりとチハヤの姿を映したようだった。

「あ、れ…チハヤ?」

そうだけど、と不機嫌に呟く。アカリはそんなチハヤを見てふふと声を漏らして笑った後、唇を震わせて囁くように続ける。

「……びっくりしたぁ。ルークが、戻ってきたのかと思った」

朧な気配。脆弱な声。弱々しい笑顔。
どれもこれも、チハヤの知っているアカリに、構成されていないものだった。
確かに彼女は卑怯だ。愚かだ。弱くてあざとくて、浅ましい。けれどいつだって強かだった。一本通った筋があった。
それなのに―――今はその筋さえ、ズタズタに切り裂かれてしまっている。

十中八九、ルークと何かあったのだ。

「…立って」
「…え…」
「送る。そんな顔見て、流石に僕も、放っとけない」

放った籠を小脇に抱え、残る手で傷に触れないように注意深くアカリの手を引き、立ち上がらせると、チハヤはそのまま彼女の家へ向かって歩き出す。
アカリは始終無言で、けれど抵抗もせずに、よろよろとした足取りで大人しく着いてきた。



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20100207:アップ