軽快なベルは来客のサイン。
カランと鳴った音に反応して、チハヤとアカリが扉を振り返ると、そこには全く覇気の感じられないルークが呆然と立ち尽くしていた。


::: Secret Voice 02 :::


「受け取れません、って」
「え?」
「申し訳ないけど受け取れませんって」

萎びたハーブを二人に突き出しながら、ルークが言ったのはそれだけだった。
相当なショックだったのだろう、椅子に座ろうともしない青年を見上げて、アカリは困惑気味に瞬き、チハヤは小さくふぅと息を吐いた。

「何。ブドウカクテル?リンゴカクテル?」
「…」
「あ…と、とりあえず、座ったら」

隣の椅子をひき、促すアカリ。ルークは無言のまま素直に従った。そうして、机に伏せてしまったルークの頭を撫でようとして、躊躇う少女の、宙を彷徨うてのひらを横目にチハヤは立ち上がる。

「…今はアルコールなら何でもよさそうって感じだね。一番やっすいカクテル大量に作ってくるから、それまでルーク見ててよアカリ」
「あ、うん、ありがとう」
「大事なお客様々ですから」

チハヤが言うと嘘くさい、と失礼なことを言って笑うアカリの声を背中に、チハヤは厨房への入り口をくぐった。
夕飯時、つまりは一番店が繁盛する時間帯を過ぎているから、厨房もそれほどの混雑はない。今はマイが一人、鼻歌を歌いながらシンクを磨いていた。

「折角掃除してるとこ悪いけど、汚すよ」
「あ、チハヤ。今から何か作るの?」
「ルークが来たんだ。けど、何かつままないと悪酔いしそうだから」
「ふうん?」

スポンジを手にしたまま客席を覗き見るマイ。そこには先ほどと違わず、突っ伏すルークと気遣わしげに見つめるアカリの姿がある。
マイなりに何かを察したのだろう、特に追及してくることもなく、あっさりと頷いた。

「そう言えばあたしもちょっとお腹空いちゃった」
「…、マイの分も用意するよ」

まな板と包丁を取り出し、熱湯をかけて消毒する。それから冷蔵庫の材料をいくつか、適当にその上に広げて、あとはもう思いつくままに調理するだけだ。

―――あ、うん、ありがとう。

ルークに対しての行動なのに。
当然のようにアカリが礼を言ってきた。

フライパンの上でじゅわじゅわと音を立てる野菜を菜箸で転がす。空いた時間にグラスを用意し、カクテルを注ぐ。
流れるような手つきと反比例して、チハヤの心は少しの淀みを訴えた。



簡単な野菜炒めとカクテルを、テーブルの中央に置く。
立ち上る香りにアカリは頬を綻ばせて、傍らのルークに語りかけた。

「ほら、ルーク。おいしそうだよ」
「……」
「…ルーク」

睫を伏せるアカリ。チハヤは何でもないように皿と箸を配るけれど、内心は面白いはずなどなかった。折角、自分の腕で―――料理で、華やがせた少女の面を、ルークはその態度一つで切なく塗りこめてしまうのだから。
しかも当の本人に自覚も、察しもないところが、余計にチハヤの苛立ちを煽る原因となっていた。

意識して、ルークの箸を叩きつけるように置いたら、バチンと小気味のいい音が響いた。
乱暴な所作に目を瞠るアカリを置いて、チハヤは言い放つ。

「うじうじしてないでさっさと食べなよ」
「…っちょっと、チハヤ、」
「さっきからずっと黙り通しだけどさ、一人でいたいなら帰ればいいだろ?」

言い過ぎだと言わんばかりにアカリがこちらを見やる。それでも言葉を重ねた。

「君は何がしたいんだい。まさか、アカリを無視するためにここに来たわけじゃないよね」

ぴくり、ルークの腕が動いて。
緩慢な動作で顔を上げて、垂れた前髪の間からチハヤをねめつけて来る。顔が見えないからだろう、金瞳だけが際立ち、獣のような鋭さだった。けれどチハヤは怯まない。

「君を見てると苛々するよ。泣き伏せてれば状況が変わるとでも思ってるの?」
「もう!…チハヤ!やめて!」

耐え切れず先に声を荒げたのはアカリだった。続けてアカリが口を開いたところで、一際大きな音がフロア中に響いて。無言で、蹴るように立ち上がったルークは一度も二人に視線をくれることなく、大股で宿を出て行ってしまう。

「あ…ルーク!」

思わず立ち上がった少女は、けれど青年を追いかけられないようで。暫し扉を見つめていた瞳を、ゆっくりとチハヤに向ける。奥で揺らぐのは、怒り。

「…見損なった。よくあんな酷いこと言えるね」
「へぇ。損なわれる程度には、評価してくれてたんだ。ルークしか眼中にないのかと思ってた」

片方の口角を上げて言った。アカリの頬に朱が走った。

「っ…、わたしは!チハヤは口は悪いけど、優しいって思ってたよ!なのに、」
「あんなこと言うなんて最低だって?見損なった?つくづく人がいいね、アカリは」

右手で口元を覆い、肩を震わせて。くつくつと笑うチハヤを、アカリは困惑した顔で見てきた。まるで信じられないものを目前にしたような瞳で。
ひとしきり笑ったチハヤは次いで表情を凍らせる。そうして、戸惑いを隠せない様子のアカリに、硬質な表情で言い放つ。

「卑怯で、愚かな奴」
「…?」
「僕のアカリへの印象」

目の前の少女が、瞠目するのが判った。それでいて、ぐっと唇をかみ締めるのも。
反論しないのはどうせ、間違っていないから、とかそんなことを考えて、この理不尽な中傷を受け止めようとしているからだろう。それが、何よりもアカリのルークに対する気持ちを肯定しているようで、チハヤはただ腹立たしくなった。

「君を見てると苛々するって、ルークに言った言葉。君たちを、に訂正するよ」
「…泣いてれば、状況が変わるなんて…ルークもわたしも、思ってない…」
「ならどうして君は、何も言わない、んだろうね?」

アカリが息を呑む。そうして、ゆっくりと頭を振った。初めての拒否の態度。

「そうやってルークの気持ちを判ったように語って、一番の理解者ぶって、協力者ぶって傍に居続けてるけど…自分の気持ちは何一つ明かさずに、ルークが転がるのを待ってる」
「…がう」
「違わないさ。僕にはそうとしか見えない」
「違う!わ、わたし、そんなこと…!」

両手で顔を覆い、激しく首を振るアカリ。俯いた小さな肩は震えている。
チハヤはそっぽを向き、少女を見ないようにした。けれどぽつりと。飴色のテーブルにぽつりと。涙が散る音を耳にしたら心の奥底が何かを叫んだ。
声にならない叫び。

―――声に出来ない叫び。


「チハヤッ!もう料理でき…」


よく通る声が空気を裂く。
二階からひょっこりと現れたマイは漂う不穏な空気を敏感に嗅ぎ取った。そして、テーブルを挟んで対峙しているチハヤとアカリを見て眉をひそめ、そのアカリが涙していることを悟った次には目を瞠り、慌てて少女へと駆け寄った。

「アッアアッアカアカリさん!どっどしたの!どうしたの!?」
「……んでも、な…」
「何でもなくないでしょ!何でもないことないよ!?何もないなら泣かないよ!?」

肩を撫でさするマイの手をチハヤはただ見つめる。

「僕が泣かせたんだよ」
「ああ!チハヤが泣かせたの……って、えっ!?」
「っ…」
「アカリさん!」

目を剥くマイの、労わるような手を振り解き、アカリは扉へと駆けていく。途中擦れ違ったチハヤと、アカリが視線を交えることはなかった。
扉に掛けられたベルがゴロンと重たく鳴り響いて、今日二度目の乱暴な扱いに対して不満を訴えてくる。やがてその音も静まり、静けさだけが食堂を満たした。

「……チ、チハヤ…」
「悪いけど、手伝って」
「え?」

疑問符を頭上に並べるマイ。チハヤは椅子を引き、腰掛けて、一膳の箸を手に取った。

「僕一人じゃ食べきれないから」

大皿の料理を、手元の小皿によそって口に運ぶ。どこか機械的な動作を、暫く見つめていたマイは、小さく息を吐いて青年の真向かいに座った。

「いただきますっ」
「どうぞ」


野菜炒めは、とっくに冷めていた。
その中途半端な温さを舌の上で転がして、青年はそっと目を伏せた。



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20080813:アップ