一年前、彼らがミネラルタウンに越してきた時のことを、町の人々は今でもよく覚えていると言う。
「そりゃあ驚いたものよ!こんな辺鄙な町に引っ越してくるだけでも珍しいのに、それが若い姉弟だって言うんじゃ尚更よねえ。だからよっぽど偏屈なのか、人目を忍ばなきゃいけないようなワケありの人なのかって噂してたのに、いざ来てみると礼儀正しくて気さくな二人だったんだもの!まあグレイはちょっと気難しいところあるけど、イケメンっていうのかしら?あんな見てくれだし、クレアも美人だからみんな内心かなり喜んだんじゃない?そうそう、特に若い子たち!何てったって都会からやってきた麗しきお姫様と王子様だもの。この年のあたしでさえはしゃいじゃったんだから、あの子たちが嬉しくないわけないわよ!」
ワイナリーを経営するお喋り好きなある主婦は、当時の出来事を饒舌にこう振り返った。
01 恋人と履き違えてはならない
ところどころがむき出しになってきた土に、強くクワを振り下ろした。
冬の間、雪の重みにさんざん押し固められたこともあり、農具の切っ先は中々通らなかった。
それでもクレアはじっくりと、時間をかけて、小さな範囲から土を掘り起こしていく。手間と愛情をかけてやれば、充分に大地は答えてくれるのだと、去年の牧場生活から学んでいた。
「……ふぅ」
「はよ」
「あら、おはようグレイ」
「クワ貸して」
え、と思う間もなくグレイはクレアの手からクワを掬い取り、そして下ろす。力が込められているようにはまるで見えなかったが、クワは面白いほど深々と地面に刺さり、たちまち湿った土があらわになる。
何箇所かを耕しただけなのに、グレイの作業範囲はクレアの耕したそれをあっさりと超えた。
「相変わらずお見事ね。…こっちのほうが向いてるんじゃない?」
「別に。ちょっと時間あるだけだし…三十分くらいしたら行くから」
素っ気無い言葉を紡ぎながらも、地面を耕し続けるグレイ。時折混じる大きな石などを取り除くのにクレアはいつも苦戦するのだが、彼は当たり前のようにクワで掘り起こし、少し遠い地面に向かって放る。
人間、自分が苦労していることを他人に簡単にやられると悔しいものだ。
しかし今更こんなことでクレアは傷つかない。目前でぶっきら棒に作業を手伝ってくれる義理の弟が、なんでもそつなくこなしてしまう万能タイプの人間であることなどとうに知っている。
ここだけの話、炊事洗濯掃除どれをとってもグレイの方が上手いのだ。
「コツは何?やっぱり力なのかしら」
「力も要るけど、角度も大事だろ」
「うーん、意識してるつもりなんだけど」
「冬の間に感覚が鈍ったんじゃねえの?て言うか力押しするにしても、その前に自分に力押しできるだけの腕力があるか考えろって」
「…ばっさりと痛いところ突くわね」
今日も今日とて相変わらずの毒舌だ。
引き取ってすぐの頃はまだ可愛げがあったのに、などと昔を振り返っていたら、グレイはぼそりと呟いた。
「……強引にやっても肩壊すだけだぞ」
先程彼を万能だと評したが、中々どうして意地っ張りである義弟は、素直に感情を表すのが下手だ。
特に不安や心配などの負の感情を、ぞんざいな態度に押し込めてしまう節があった。
「…っもう、心配性ねえグレイったら!」
「あっ、ぶね!急に抱きつくな!寄るなよ!離せ!」
「怪我しないように気をつけるわね!」
「だーっ、離せっつってんだろ!!」
しかしそんな不器用さも、周囲の人間にクレアをブラコンと言わしめる原因の一つでもあった。
齢二十四歳のクレアは、六歳年下の義理の弟グレイのことを溺愛している。
グレイが鍛冶屋へと出かけたのを見届けてから、作物の種を蒔く。僅か三十分でも彼の功績は多大だった。おかげでふかふかの土の範囲はかなり広くなっていた。
カブは安価だが貴重な収入源だ。ジャガイモはグレイの好物なので問答無用で広範囲に蒔いた。
キュウリの種も一角に。表向きはサラダ用だが、クレアは河童に会いたいという願望を密かに抱いている。
「…………さい」
暫くの間黙々と作業をしていると、牧場入り口の方から人の声がした。
しかし種蒔きに没頭していたクレアは、訪問者の存在に気付かなかった。しゃがみこんだまま、土に一心に向き合う。
「ごめんください」
「っ!!」
歩み寄ってきたのだろう、近く聞こえた背後からの声と気配に、ビクリと肩を震わせる。
瞬間的に背中を伝った冷や汗は、彼女自身にもどうしようもない反射反応だ。
慌てて立ち上がり振り返ると、見慣れた町の女性の姿があった。
「あ……ブレンダさんですか。おはようございます」
「おはようございます。すみません…こんな朝早くに…」
「いいえ。どうかされました?」
「…その…」
名をブレンダという女性は、クレアの問いに刹那逡巡して視線を彷徨わせる。
それから、決心したように真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「ク、クレアさんは、今年もグレイさんにエスコートしてもらおうと思っているんでしょうか?」
「え?」
「だからっ、そのっ……め、女神祭の……」
ブレンダの台詞はだんだんと尻すぼみになり、ダンス、と付け加えられた言葉はほぼ溜息に等しかった。
ここまで聞いてクレアにも相手の言いたいことが分かった。
すっかり頬を染め、落ち着きなく指を動かしている女性に向かって、クレアはにっこりと微笑む。
「グレイに誘われたんですね?それで、去年の同伴者に断りを入れに来てくださったんでしょう?」
「…いえ、その…」
ブレンダはもごもごと口篭る。その様子からクレアは確信した。
「ご丁寧にありがとうございます。でも、去年は越してきたばかりで、お互いに相手がおらず姉弟で参加しただけなので、わたしのことは気にせず…」
「…ち、違うんですっ!!」
一際大きな声でクレアを遮り、ブレンダは酷く言い辛いことを告白するように細く囁く。
「…誘われてなんか…ないんです。これからだって、待っていたって、絶対に誘われないです!でも…、私はどうしてもグレイさんとご一緒したくって…だったら私から誘うしかないって…!」
羞恥を抑えながら、一言一言懸命に話すブレンダを見て、クレアは微笑ましい気持ちになる。
目の前の女性は、普段どちらかというと内気で控えめな方だ。その彼女をここまで突き動かし、早朝から牧場へ出向くという行動力を起こさせているのはすべてグレイへの恋慕なのだろう。
口は悪いけれど優しい、クレアの自慢の義弟。
「大丈夫ですよ。そんな約束はしていませんから」
恐らく、クレアとの先約の有無を気にしていたのだろう。柔らかく言うと、ブレンダは心底安堵した様子で息を吐いた。その可愛らしい様子を見ていると、頑張って欲しいと思う。
クレアは確かに自他共に認めるブラコンだが、グレイの心身の成長と自立を至上の喜びとするタイプで、義弟の行動を縛っていたいとは望まない。この町で素敵な人と一緒になってくれるならそれでいいと考えている。
けれどここから先はブレンダとグレイの気持ちの問題だった。クレアは協力を申し出るつもりも、万一要請されたとして承諾するつもりもない。
そしてこの女性がそんな要請をしてくる人間ではないことも分かっていた。
「あの、ありがとうございます……って言うのも、おかしいでしょうか」
「ええ。わたしの許可なんていらないんですから」
「…はい。でも、ありがとうございます…ふふ」
和やかな朝の、和やかなひととき。
しかし、口元に手をあてて上品に微笑んでいたブレンダは、ふと気が付いたように問うてきた。
「クレアさんは、どなたと行かれるんですか?」
「…実は未定なんです」
「嘘!」
「お恥ずかしながら…まあ、一人では駄目だという決まりもないので、顔は出すつもりです」
クレアが首を傾いで少しだけ恥ずかしそうに言うと、途端にブレンダの表情が申し訳なさげに変化した。目敏く察知して、慌ててクレアは言葉を付け加える。
「あ…でも、この人と行けたらいいなと思う人はいるんです。だから、もし機会があればその人にお願いしてみようと思っていますから」
全くのでまかせだ。本当はそんな人などいない。
ただブレンダを安心させるためだけに言うと、彼女の表情がようやく再び明るくなった。
***
雑草を抜いたり、山の実りを収穫したりと動き回っていたクレアが、グレイに再会したのはその日の昼だ。
家と職場が近いため、確かにグレイは毎日昼食を摂りに帰ってくるが、この日の彼は明らかに今まで義姉を探し回っていたという風にクレアを出迎えた。
「クレア!」
「おかえ…りっ」
言葉尻ではずみをつけて、タケノコの詰まったカゴをどすんと出荷箱の横に置く。
そのまま収穫物のチェックと納品をしてしまおうと、地べたに腰を降ろしかけたクレアの細い腕を、しっかりと捕らえて引き止めたのは他ならぬ可愛い義弟だった。
「?どうしたのよ。お昼ならテーブルの上にあるでしょう?」
「女神祭誰と行くつもりなんだよ」
「え?」
互いの言葉が重なり、グレイの言葉をすぐには飲み込めなかったクレアがきょとんとする。
その様子に益々焦れたように眉を顰めて再度グレイは言う。
「だから、女神祭。もう相手決まったのか」
「え、ああ、なんだそのこと?まだよ?と言うか一人で行くつもりなんだけど」
「……でも、エスコートして欲しい相手は、いるんだろ?」
どうしてそんなこと―――口からでまかせの気休め―――を知っているかなど、追及するまでもない。
「ブレンダさんから聞いたのね」
断定口調で訊ねれば、凛々しい片眉がぴくりと動く。彼自身も気付いていないが、それは物事を肯定する時のグレイの癖だ。
ふふ、と小さく声を漏らして笑い、あやすように、自らの腕を掴んだ無骨な手の甲に触れる。
「ちょっと事情があってそう言ったけど、生憎そんな相手はいないの」
「……嘘ってこと?」
「人聞き悪いわね。円滑な人間関係を築くための潤滑油よ」
「…クレアみたいなタイプの人間が、『嘘も方便』を都合のいいように解釈して使うんだな」
言葉こそ毒を含んでいるものの、声音から先程までの焦りは消えていた。
本人に指摘すれば全身全霊で否定されるだろうが、彼も彼で結構なシスコンだとクレアは密かに思っている。
そんなグレイの、決して態度に表さない―――表していないつもりでいる―――健気さやいじらしさが、可愛くて仕方がなかった。
「まあ、そういう訳だから、グレイはグレイで楽しんでらっしゃい」
ぽんぽんと手の甲を優しく叩く。話は終わりの合図。
けれど、クレアの腕を掴む掌が離れていく気配は、ない。
「…グレイ?」
「―――こうよ」
「え?何?」
口の中で散々押し潰して吐き出されたような呟き。
首を傾げながら問うたクレアの鼓膜を、よく通る低い声が揺らした。
「俺と行こうよ」
グレイの表情はどこか苦しげで、言葉よりむしろ彼の顔から真意を推し量ろうとしたが、結局量り切れずに短く返す。
「どうして?」
「……俺も行く相手、居ないし」
「…ブレンダさんは断っちゃったの」
「クレアと行くつもりだったから」
「まさか…そう言って断ったの?」
片方の眉がぴくりとする。
ブレンダのエスコートに関しては、グレイが決めることなので、気が進まなかったならそれでもいい。
しかし、断りの理由に義理とは言え姉を持ち出すのは問題があるのではないかと、クレアは微かに眉を顰めた。途端に義弟の顔が不安を帯びる。
彼は彼女の心の機微を察知するのが、驚くほど上手だった。
「……あのね」
細い人差し指を己の眉間にあて、皺の寄ったそこをぐりぐりと揉み解しながらクレアは言う。
「本当はこんなことわたしが言うべきじゃないんだけど、あなたはかなりもてているのよ」
「…別にそんなこと…」
「あるの。グレイの姉ってだけで、わたしが何度女の子から頼みごとをされているか知らないでしょう?まあ、当人同士の問題だからって言わなかったのはわたしだけど…何だったらいくつか例をあげるわよ」
「興味ない」
「…ほら、そうやってすぐ拒絶する」
呆れたように呟くと、心なしか腕を掴まれる力が強まった。
クレアがグレイを義弟として引き取ったのは、彼女が十九歳、彼が十三歳の時だ。
互いの両親は子供をクレアの家に残し、四人で出かけて―――そして帰らぬ人となった。
それが、五年前のクリスマスの出来事。
訃報を耳にして、二人の子供が受けた悲しみの深さは計り知れなかったが、表現方法は対極だった。クレアは泣き叫び、グレイは一滴も涙を流さなかった。―――流せなかった、と言った方が正しいだろう。
まだ未成熟な心は、身に降りかかった現実を処理しきれなかった。
グレイが思い切り泣くことができたのは、それからきっかり一年後のことだ。
二人が姉弟になって初めてのクリスマス。クレアの言葉によりグレイの凝り固まった心が一滴の水滴を零し、それはたちまち濁流となった。
彼女はまだか細かった彼の身体をしっかりと抱きしめて一緒に泣いた。
「いい?グレイ」
「よくない」
「…せめて最後まで聞きなさいよ」
「どうせわたしじゃなくて他の女の子を優先しなさいとか言うんだろ」
「よくお分かりじゃない」
「だから、興味ないって言ってんだよ」
あの日以来、クレアという存在はグレイの心の大切な領域にのし上げられたらしく、今のようにクレアを最優先にして、他の人たちを蔑ろにするところがあった。この扱いの差は老若男女問わなかったが、心なしか女性に対してはその傾向が強く表れるようだった。
可愛くないと言えば嘘になる。
けれど、義姉として心配になるのも当然のことだ。
クレアは意識して厳しい表情を作ると、グレイの手をそっと振りほどいた。
「とにかく、わたしは今年グレイと行くつもりはないの」
「一人で行くのかよ。ドレス着て?」
「あら、孤高な女神っていうのも素敵じゃない」
ふふんと誇るように言い放つ。
これ以上この話はしないとばかり、カゴの中の収穫物を手にした彼女の耳に、不貞腐れた声が滑り込んだ。
「……じゃあ、俺は行かない」
視線を移すと、声だけでなく表情まで完璧に臍を曲げた義弟の姿があった。
一度こうなるともはや何を言っても無駄なので、しばらく放っておくのが得策だ。
グレイの性格を熟知しているクレアは冷静に判断して、グレイの好きにしなさい、と返す。
「それよりグレイ、お昼は食べたの?時間ある?」
「食った。もう行く」
端的に、しかし律儀に返答してぷいと踵を返し、グレイは再び鍛冶屋へと歩いていく。
今では立派に成長した広い背中を見送りながら、グレイにあしらわれた町の女性達が自分に流れてくることを予想して、クレアは一つだけ重く溜息を吐いた。
20091012