仕事を終え、いつもならば真っ直ぐに我が家へ向けるその足を、グレイは珍しく酒場へと伸ばしていた。
別段用事は無いのだが、クレアとあんなことがあったあとで素直に帰宅するのはどこか癪だった。
大雑把でいい加減な義姉のことだ。
昼間のやりとりなどすっかり忘れ、仏頂面のグレイを笑顔で迎え入れるに違いない。それだけならまだ良いが、最悪の場合、ご機嫌斜めじゃないどうしたのよ、などと言いかねない。
暢気にそう問うてくるクレアを想像して―――悲しいかな、またそれが容易に想像できてしまい、グレイの米神が一瞬だけピクリと引き攣った。
02 姉を傷付けてはならない
「いらっしゃいま…あー!グレイ!珍しいねっ」
店に入ってすぐ、宿屋兼酒場の娘ランが明るく声をかけてくる。
きゃぴきゃぴした女性が苦手なグレイだが、彼女の明るさや気さくさには厭味も裏もなく、その清々しさにはどちらかと言うと好感を抱いている。
「…よお」
「久しぶりだねっ。半年くらい来てないよね?ま、ま、座って座って!」
にこにこと笑顔のランに導かれて、フロアの隅、カウンター席の端に腰掛けたグレイは、大きな棚に並べられたボトルから、適当に目に付いたものを指差して言う。
「あの青い瓶のやつ」
「『グッドラック』だね!ロック?水割りソーダ割り?」
「ロックでいい」
「はいはーい。…しっかしグレイ、相変わらずおじさんみたいな渋い背中だねー。本当に同い年?」
「ほっとけ」
二言三言、軽口を叩いてランは厨房へ消えていく。
それを見送るでもなくぼんやりと見ていると、突如視界に女性のアップが映りこんだ。
「!」
「何見てるのぉ?…それとも、誰って聞いた方がいーい?」
酔っているかのような舌足らずな口調とは裏腹に、隣のカウンターチェアに素早く腰掛け、身を寄せてくる。グレイが露骨に嫌な顔をして身体を反らすと、その女性は鈴を転がすような音で笑った。
「やっだぁ、カワイー!キンチョウしてるぅー?」
「…ってか、誰」
「アタシぃ?教えてあげてもイイけど、アタシ男にはベッドの中でしか名乗らないことにしてんのぉ」
ますます身体を密着させてくる女性の服は胸元が大きく開いていて、ふくよかなバストの谷間が露になっている。加えてどぎつい香水の香りが鼻を衝き、グレイは早くも酒場に来たことを後悔していた。
イベントを控えた夜の酒場がどういう状況であるかくらい、来る前に考えが至るはずだった―――普段のグレイならば。
「…他あたってくれ。男ならその辺にウヨウヨいるだろ」
「あら、アタシにだってタイプってもんがあるんだからぁ」
「その言葉そっくり返す」
これ見よがしに溜息を吐く。
しかし女性はめげるどころか益々楽しそうにニンマリと笑った。その笑顔たるや今にも舌なめずりをしそうなほどだ。戦慄を覚えつつ、ラン早く来いよと別のことを考えて気を紛らわせようとする。
その時、背後からもう一つの声がした。
「へぇ、噂には聞いてたけどホンットにイイ男ねー。レイナのどストライクじゃない」
「あぁん!アリア、横取りは駄目よぅ。アタシが先に目つけたんだからねぇー?」
「おい…何勝手なこと言ってんだよ」
「イイじゃないの、減るもんじゃないし」
しかし、内心助かったと思っていたグレイに差し伸べられたもう一つの手は、救いではなく魔の手だった。
「こんな美女二人、相手にできるチャンス中々ないわよ?あんた…グレイだっけ?グレイもそう思うでしょ?」
「思うかよ…」
「そのぉ嫌っそうなぁ、眉間にしわ寄せた顔がーアタシのちょータイプなのよぅっ!」
「っ離せよ」
ますます絡み付いてくる女性―――レイナの腕と、背後から親しげに肩や背中を撫でさすってくるアリアの手を強引に振りほどき、グレイは立ち上がる。
「ええー、もう行っちゃうのぉ?」
ランには悪いが、もはや注文などどうでもいい。心底帰りたかった。
「…なーんだ、逃げんの?」
逃げるように二人の元を離れ、扉を押し開けかけた彼の耳に聞こえたのは、男性の声だった。それは、犬猿の仲とも言うべき人物のもの。
グレイはゆっくりと振り返る。
「ジン…」
片手にグラスを持った男性が、ニヤつきながらこちらを見ていた。
ジンと呼ばれたその青年は、ダークブラウンでウェーブのかかった毛髪と、くっきりとした黒い瞳を持つ、中々に端正な顔をしている。今は人を小馬鹿にするよう歪められている唇も、普段は薄くて形がよく、故に町の女性からの人気が高い男性だった。
「お前の大好きなオネエサンだぜ?相手してもらえよ」
「お前がしろよ―――そういうの、得意だろ」
グラスを傍らのテーブルに置きながら、グレイの皮肉を肩をすくめて受け流すジン。
「イヤだね。オレはオレに擦り寄ってくる女には興味ないの」
「えーえちょっとー、それレイナの台詞なんですけどぉ」
「ホントだよ、ジンなんてこっちから願い下げだってーの」
「はは、ゴメンって。二人ともイイ女だよ」
レイナやアリアが非難めいた言葉を放つが、ジンは笑ってそれも流した。
ジンはお世辞にも女癖が良いとは言えないが、見てくれと話術に優れており、薄い氷や細い縄のような危機的状況を飄々とクリアしてしまえる要領の良さがあった。
しかし一年前クレアとグレイが越してきてから、彼を取り巻く環境は変化の兆しを見せ始めた。
それまで町の女性の人気を集めていたジンと、新参者のグレイは、何かにつけ比較されることが多かった。
無愛想で、言葉を誤魔化さないグレイの性格は、厳しくはあるが誠実だと町の女性の目には映った。加えて姉であるクレアにのみ思いやりを傾ける彼の姿は、私もそんな風に大切にされたいという女性の独占欲や願望を掻きたてた。
故に、今まで軽薄ながらも憎めないキャラクターで通っていたジンは、じわじわと首を絞められ始めたのだ。
だがジンがグレイを敵視する一番の原因はそれではなかった。
「そうだな。二人の名誉にかけて言い直しとくよ。……オレ、今、狙ってる女いるから」
その台詞は、グレイを挑発するための響きが多分に含まれている。分かってはいたが、ピクリと米神が引き攣るのを止められなかった。そんなグレイの表情を、ジンは見逃さない。
「どうしたんだよ。顔つきが変わったぜ?」
「別に」
「そうかよ。―――なあお前もしかして、今年も大好きなオネエサンと女神祭行くつもりかよ?」
「…お前に関係ないだろ」
「ああ!実は既に誘ってみたけど断られましたってか?」
言い当てられ、グレイは不覚にも瞠目してしまった。
その反応をしたり顔で見据えて、ジンは殊更に声を大きくして言葉を続ける。
「そりゃそうだよな。去年は仕方なくとも、今年まで一緒に行く必要ないと思うよな、普通。あれだけイイ女なんだ。わざわざオトウトに頼まなくたって、引き連れて見せびらかしたいって野郎は腐るほどいるだろ」
オネエサン、オトウト。
二つの単語を強調して吐かれる台詞に、昏い炎がぽっと宿る。
グレイは奥歯を噛み締めてジンを睨んだ。
「……クレアを物みたいに言うんじゃねえよ」
「男なんて、皆考えてることは一緒だろ?連れて歩くんなら美人の方がいい」
しゃあしゃあと言ってのけたジンに、強く拳を握り締めた。
今や酒場にいる全ての人間が、二人のやり取りに聞き耳を立てているのが嫌でも分かった。
けれどそんな中で感情を露にすることが、後にどれだけ自分の首を絞めることになるのかも、彼は過去の苦い経験から心得ていた。
『不安に…させてごめん…ね…』
脳裏を過ぎる言葉があった。
それはとてもとてもか細くて、強風に晒された蝋燭の火のような、声。
思い出した途端、荒んでいた心が勢いを失い、グレイの精神が平坦を形取り始める。
「…なら誘ってみろよ」
ふっと息を吐いて、肩から力を抜く。トラウマとは悲しくも残酷に効果的なもので、何年も前のたった一言を思い出すだけで、今にも燃え盛ろうとしていた炎はたちまち沈静化してしまった。
グレイはいつもこの手段をとる。
「今からでも、明日でも、クレアんとこ出向いて誘えよ。―――それと、クレアがお前を相手にしないからって、いちいち『オトウト』の俺に絡んでくるな」
「っ…は!?何言ってんだよお前。オレが断られるわけ…」
「だから、そういうのが鬱陶しいんだ」
何かの感情がメーターを振り切りそうな時、グレイは決まってあの言葉と、微かに滲んだ涙を思い出した。
そうすれば、全ての感情が嘘みたいに力を失うことを、心は無意識下で意識している。
「んっだとこのシスコ」
「はいはーい!『グッドラック』お待ちーっ!」
一触即発の空気を壊したのは、突き抜けるようなランの明るい声だった。
彼女は今にも殴り合いを始めそうになっていた二人の間に割って入り、にっこりと微笑んだ。そして運んできたグラス―――『グッドラック』だ―――を片手に持つと、空になった盆の角でグレイの額を思い切り叩き、返す手でジンの額も同じように叩いた。
ガツンと小気味よい音が二度、酒場に響き渡り、先程までと違う意味で辺りが静まり返る。
「…っ!」
「…」
各々、額を押さえて悶絶する二人を睨み上げて、ランはやや立腹した口調で述べる。
「喧嘩はご法度!酒は飲んでも呑まれるな!あんたたちの所為で空気ぶち壊しじゃん!!」
「だっ…からってラン、おま、かっ角…!」
額を撫で擦って抗議するジンに、目を向けるランの瞳は、心持ち据わっていた。
「いい具合に酔いが醒めたんじゃない?良かったじゃん、まだ飲めるよ。それとも足りない?」
「…オレが悪かったです、すみません、深く反省します」
「そうしてよね。…グレイもグレイよ!あんた素面のくせに何酔っ払いと同等に張ってんのよ!」
「悪かった」
男二人が謝罪したのは、可憐ながらも逞しく酒場を切り盛りする、未来の女主人だった。
***
流石に身を引くことにしたのか、あの騒動の後、レイナとアリアもどこかへ消えていた。
二人のやり取りまで酒の肴にされ、すぐにざわめきを取り戻した酒場の隅で、『グッドラック』をあおるように飲み干したグレイは今、足早に帰路を歩いていた。
この町に来てから、こんなに晩くまで一人で居たこと―――クレアを一人で居させたことなど殆どない。
それこそランの言った通り、酒場に足を運ぶのも半年ぶりという程。あまり酒が好きではないということも理由の一つではあるが、グレイは意識して、なるべく義姉を一人にしないようにしてきた。
あの事件があってから。
それは、凝った心をクレアが溶かしてくれた冬を超えて、当時住んでいた町に春の気配が訪れた頃のこと。
グレイは十四歳、クレアは二十歳になっていた。
***
両親が事故に遭ってからずっと、グレイは学校を休みがちだった。
しかし一年後のクリスマス、クレアと義姉弟となって初めてのその日に大泣きをしてからは、またぽつぽつと通うようになった。
毎日ではなかったし、休む日も他の生徒に比べれば多かったけれど、彼の義姉は一つも気にする風もなく笑ってくれていた。それが、グレイには大きな救いであり、支えだった。
学校の生徒の間でも、彼の再登校は大きな話題となったらしい。特に、女子生徒の間で。
グレイ本人は無自覚だったが、幼少から端正なルックスを誇っていた彼は、女子生徒からの人気が高かった。そして両親の事故死という重く冷たい背景―――その年代の子供達から見れば、一つのステータスのように映ったのだろう、不謹慎だが―――も手伝って、再登校と同時にグレイの人気は鰻登りとなった。
その日も、ある一人の女子生徒から昼休みに呼び出しを受けた。
流石に回を重ねているため、用件など嫌でも想像できる。断りの台詞を吐くことに気が重たくなりながらも、律儀に校舎裏に出向いたグレイにその少女は頬を赤らめて言った。
「グレイくんが好きなの。だから、グレイくんの支えになりたい」
あるいはグレイがもう少し大人であれば、その悲劇は防げたのかも知れない。
けれど、想いを告げてくる相手に誠実でありたいと思った少年の心を誰が責められるだろう。
グレイは少しだけ逡巡して、女子生徒に告げた。
「…ごめん。応えられない。―――それに、支えてくれる人はもう、いるから」
途端に、目前の少女の顔が見る見る青ざめていく。
気まずい思いを抑えて、立ち尽くしていた。すると、細く、確かめるように少女が呟いたのが聞こえた。
「…彼女?」
「姉だよ。…義理だけど」
「お姉さん…なの…」
「うん。義理の」
「でもっ…義理って言ってもお姉さんなんだよね?好きなわけじゃないよね?」
「…好きだけど、恋愛対象としてではないと思う」
「じゃあ…っ、私を彼女として傍に置いてよ!わ、私、ずっと好きだったの!入学した時からずっと…だけど、グレイくん学校に来なくなって…すごく後悔した!どうしてもっと早く言わなかったんだろうって。もう会えないかも知れないんだって…!でもグレイくんはまた学校に来てくれるようになって、本当に嬉しかった。今度こそ傍で支えたいって思った!」
少女の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。いよいよグレイは途方にくれた。
「紛い物でも、便乗でもないの!本当に好きなの…!」
「……ごめん」
肩で息をして、必死に想いを伝えてくる少女を前にして、否の言葉しか言えなかった。
「ごめん。…今、そういうの考えられないんだ。俺も、姉も、新たな家族っていうコミュニティをどう受け止めていけばいいのか、お互い模索してる段階で……いっぱいいっぱいなんだ。だから」
ここに留まるのは、もうやめよう。堂々巡りになる。
そう判断して、グレイは踵を返しながら最後に付け加えた。
「正直、恋愛沙汰まで手が回らない」
背後で少女が崩れ落ちる気配がしたが、グレイは振り向かなかった。
もしこの時、一度でも振り返って少女の表情を確かめていれば―――クレアをあんな目に遭わせずに済んだのだろうか。
グレイはいつも思う。いつも同じところで、同じだけの後悔をする。
けれど過去に戻ることはできない。どう足掻いても。
「……クレア姉!?」
終業後、真っ直ぐに帰宅したグレイが目にしたのは、玄関に倒れている義姉の姿だった。
まじまじと見なくても、あちこちに傷を負っているのは明らかで、慌てて駆け寄ったグレイが肩を抱いて上半身を起こすと、口端に血の滲んだ唇がぐっと噛み締められた。
「痛ッ…!!」
「クレア姉!しっかりしろよ!!」
「…ぁっ、……グ、レイ…?」
「そうだよ、俺だよっ…!一体何があったんだよ!?」
「っ…ごめ、肩、いたっ……」
「あっ…悪い!」
グレイは慌てて力を緩め、クレアの身体を再びゆっくりと横たえた。
いつも微笑んでグレイを迎えてくれるはずの義姉。今日は休みを取ったから、夕食はグレイの好きなものを作っておいてあげると、朝は笑って送り出してくれたはずだ。
そんな彼女の痛々しい姿に、グレイは軽いパニックに陥っていた。
「何で、何がっ…」
「…落ち…着いて。とりあ…ず……救急…」
クレアの、か細いながら落ち着いた声音に、グレイはハッとして携帯をポケットから取り出すとボタンを操作し始めた。しかし混乱のあまり指が震え、短いダイヤルさえうまく打ち込めない。何度も失敗して益々焦れていると、その焦りを察したのか、クレアは緩慢にグレイの膝に掌を乗せた。
「大…丈夫…、見た目…ほどじゃ…ないわ」
「どこがだよ!!」
ゆっくりと顔を微笑みの形に動かすクレアの、白い頬に残る打撲痕が生々しくて、背筋を冷たいものが走った。けれどそのリアルさが、今動けるのは自分しかいないという事実をグレイに見せ付ける。
少しだけ冷静になって、再度ボタンをプッシュする。コールへの反応は早く、応対した人に今の状況を途切れ途切れに伝えると、大きな出血がある場合は押さえる、付け根を縛るなどして止血すること、そして決して動かしてはいけないというアドバイスを残してすぐに電話は切れた。
すぐさま立ち上がり、リビングから救急箱を持ってくると、グレイはそっとクレアの身体を検分する。
青あざや擦り傷が目立つが、酷い出血を伴うような切り傷や刺し傷は見当たらない。
ただし右肩に至っては、少し触れるだけで歯を食いしばるほど痛みを訴えるようだったが、クレアは二度と痛いと口にしなかった。
「これっくら…で、死にゃ…しないわよ…」
「…たり前だろ!死なれてたまるか!」
「…ん…大丈夫、…グレ、イを、置いて…たり、しないから」
「分かった…っ、分かったからもう、黙れよ…!!」
ぼたぼたとフローリングに涙が落ちる。
男のくせに情けないだとか、クレアが泣いてないのに何で俺がとか、思わなかったわけではなかった。けれどもグレイは涙を堪えることができなかった。
「不安に…させてごめん…ね…」
幼い子供を目にするように微笑みながら、切れ切れに呟き、クレアはそのまま気を失った。
駆けつけた救急隊員により病院に搬送されたクレアの診断結果は、全治三ヶ月。軽度と重度の打撲痕が多数あった他、一番酷いのは右肩と左足首の骨折だった。
「その子、『あんたさえいなければ』って、ずっと叫びながらわたしを殴ってたわ」
聞けば、一人の少女が家を訪ねてきて、玄関先で迎えたところを、後ろ手に隠し持っていた金属バットで十分近く殴打され続けたらしい。
警察は傷害事件として犯人の行方を追うと言ったが、グレイには心当たりがあった。
すっかり闇に覆われた病院の中庭で、一人の警察と肩を並べてベンチに腰掛けた。
そして、懺悔するように言葉を搾り出す。
「俺……多分、その子を知ってます」
「…本当かい?」
警察は銜えていた煙草をゆっくりと外し、グレイに向き直った。
一度だけ深く頷き、グレイはつっかえながら昼間の出来事を話した。
険しい顔をしながらも、黙って聞いていた警察は、全てを話し終えて嗚咽を堪えるグレイの、まだ細く頼りない肩をしっかりと掴んだ。労わるように。
「話してくれてありがとう。…難しいかも知れないけれど―――気に病んでは駄目だよ」
そんなの、無理な話だった。
それからの展開は早く、グレイの予想通りクレアを襲った犯人はあの女子生徒だった。少女は最初から逃げる気など無かったのか、特に抵抗もせずに認めたそうだ。
補導される際、少女が誇らしげに叫んだという台詞を警察から聞いた。
『家族がいる所為で恋ができないなら、家族を壊せばいいのよ…簡単なことじゃない!』
グレイは生まれて初めて、他人を殺したい程に憎いと思った。
***
それから暫くは未成年の傷害事件として近所を騒がせたが、やがて世間の喧騒に揉まれ、薄れていった。
グレイとクレアはすぐに住居と学校を変えたし、あの少女も遠く他の学校へ転校したそうだ。
その後も様々な物事を経て、今はこの、ミネラルタウンに住んでいる。
広大な敷地の隅に位置する小さな小屋。窓からは柔らかい光がカーテン越しに零れていて、グレイの大切な人の気配を確かに感じさせた。
作業着のポケットを探り、鍵を取り出す。
あの事件以来、クレアは自宅に一人の時―――グレイが帰宅していない時―――でも絶対に鍵をかけ、訪問者への応対もしないようになった。これは、グレイから頼み込んで取り決めたこと。
そして、義理の姉弟であることも、この町の人には伏せておこうと決めた。クレアが望んだことだった。
「ただい……っと…」
ソファで丸くなっている義姉の姿を見つけ、慌てて左手で口を押さえる。
格好からして、入浴などは既に済ませたらしく、クレアは安らかな顔ですうすうと寝息を立てていた。
ソファの横に立て膝を着き、グレイはしばしその顔を見つめる。
あの時、頬を青く染めていた傷跡はもうない。口の端に血が滲んでいることもなく、うっすらと開いた口は穏やかな呼吸を繰り返すだけだ。
「…おい、風邪ひくぞ」
試しに軽く頭を小突いてみたが、起きる気配はまるでなかった。
「おい、クレア…」
恐々と、華奢な肩に触れる。痛い、と飛び起きるのではないかと心配したが、勿論そのようなことはなく。そのまま軽く揺さぶってみても、元来眠りの深いクレアは目覚めそうにない。
「ったく…仕方ねえな……」
呟いて、上着を脱ぐと、義姉の肩と膝裏に腕を通して静かに持ち上げた。羽根のように軽いということは流石になかったが、難なく抱き上げられる重さだった。
二人が、本当の意味で悲しみを分かち合えた日。
抱き合いさめざめと泣き続けた日。
強くぎゅっとグレイを抱きしめてきたクレアの腕の力は凄くて、痛みを感じる程だった。けれど痛ければ痛いだけ、この女性を大切にしようという気持ちがグレイの中に湧き出てきた。
埋めた胸の鼓動も、温かさも、すべてが大きく感じられたのだ―――それなのに。
いつの間にかクレアを、小さい、と感じるようになった。
一度気がついてしまえばそれは至極当たり前で、特筆すべきことでも、驚くことでもなかったのだ。男であり、育ち盛りだった少年はめきめきと青年へ変貌し、少女より強く、逞しくなった。ただそれだけ。
けれどグレイはその事実に計り知れない衝撃を受けた。
あの時、してやれなかったことを、今の自分はできるのだと。
だったら。
護ろう。
この人を護ろう。
辛いと泣くなら、抱き締めて辛さから隠そう。
痛いと叫ぶなら、抱き上げて代わりに歩こう。
何かを望むなら、全力で叶えよう。
「そうだ…だから俺は、お前が、弟であることを望むなら…」
部屋へ運び、ベッドへと横たえたクレアの前髪を優しく梳きながら、呟く。
「守ろうって決めたんだ」
けれども四年に及ぶ思慕は、固くきつく締めたはずの戒めの縄を、本人さえ気付かぬうちに緩ませていったのだろう。今日の昼間、滾りかけた感情のうねりを、青年は一人で嫌悪する。
「昼間は、困らせてごめんな」
だからもう一度、縄をかけ直さなければ。今度はもっと強く。もっと頑丈に。
「今度こそ守るから。―――護るから」
固い決意を孕んだ宣誓はグレイの人生最大の秘め事。
それはどこか、懺悔にも似ていた。
20100125