結婚式という大きなイベントを明日に控え、そこかしこが華やいだ雰囲気に浸っている。

たくさんの卵やバター、小麦粉をキッチンに所狭しと並べ、それらの品々を前にほんの少しの間だけマスターは目を閉じた。祈りのような刹那の時を挟んで。暫しの逡巡の後、すっと瞼を持ち上げて、気合を入れるように袖を捲った彼は一体何を脳裏に描いたのだろう。

「…マスター」
「あれっ、まだいたのかい?」
「ええ…マスター」
「お疲れ様。今日はもうお終いにしてくれていいからね。おいら、これからケーキを…」
「マスター!」

常と違うあたしの様子に、気が付いていないはずがないのに。
そ知らぬフリを貫こうとしていたマスターを、けれど、あたしはもうそ知らぬフリなんてできなかった。

だって。

「このままで、いいの…?」

もう、明日はないのよ。マスター。

彼がどれだけ彼女に心を砕いたか、傾けていたか、きっと一番マスターの傍にいたあたしが一番見てきたはずだった。じわっと、瑞々しい果汁のように、さらりと甘く、マスターが気持ちを滲ませるただ一人の人。けれどティナさんはマスターに応えることはなくて。

「だって、も、う…今日しか…!」

何故あたしが涙を流す必要があるんだろう。
多分、必要と言うならきっとあたしにはないはずだった。けれど理屈じゃない涙がただただ零れていくのを止めることなんてできなくて。

「……っとに、誰も彼もさぁ…」

そんな馬鹿みたいな無様なあたしを、マスターは笑った。

「そうやっておいらより先に零しちゃうんだから、参るよ」

柔らかく笑った。

「きみたちのおかげで、何かもう、自分が味わったような錯覚に陥っちゃってるんだよね」

カツ、と靴音を響かせて歩み寄ってきたマスターが、触れるか触れないか程度の弱さであたしの頭を一度、ポンと撫でる。

「―――まるでお菓子作りみたいに、ティナさんを好きになっちゃったんだ」

目前で浮かべられている柔和な表情には、一点の曇りも闇も見つけられなかった。

「ティナさんの中のおいらが『キャラウェイの店主』から動かなかったように、おいらの中のティナさんは、ただの『好きな人』を超えてしまったから」
「…マ、スター…」
「そしたらもう、自分でも、その位置から彼女を動かせなくなっちゃったみたいでさ」

製菓を職に、その腕一本で生きているこの人の、お菓子作りに匹敵する想いがどれほどのものであるかなんて、とても推し量ることは出来なくて。

「それを……マスターは、しまっておくの…?」
「言うつもりはないよ。この先もずっと」

穏やかな声とは裏腹にどこまでも決然と告げ、だけどね、と続けて。

「おいらのお菓子を食べて、美味しい、って笑ってくれるティナさんだけは、誰にも奪わせないし、負けたくないと思うよ―――それがおいらの意地」

静寂とあたしの嗚咽が響く店内に、寄り添わせるようにマスターはそう紡いだ。



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20100608:アップ